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一日目:奏湖編 01話

「うわ、すごい色だな。」

キャンパスで見かけた、綺麗なオレンジ色のサラサラロングストレート。
大学ってあんな髪色でもいいんだなぁ、なんて、つい先日まで高校生の私には衝撃的だった。

大学の入学式も終わり、少しずつ新しい生活に慣れ始めていた頃。
ノートを貸し借りするくらいの友達は出来たが、まだ一人で居ることが多かった。

その日、講義のために教室で教授を待っていた。
定刻になってもなかなか教授は現れない。
まぁ、大学の教授なんて大方そんなものなので、特に気にしていない。
しかし、三十分教授が来なければ休講決定だ。
二十分を過ぎたあたりで教室は騒がしくなり、あちらこちらから「今日休みかなー?」「ラッキー☆」と聞こえてくる。

そわそわする教室の雰囲気に、私も文庫本を読みつつ、落ち着かなくなってくる。
と、トントン、と肩を(恐らく人差し指で)つつかれた。
「ねぇ、今日講義ないのかなぁ?」

・・・誰?
ゆっくりと振り返る。

しばらく返事が出来なかった。
そう、入学式の日に見かけた、あのオレンジ色の髪の人だった。


「・・・・・・あ、あぁ、そうですね、多分。」
あんまりジロジロ見たら失礼だな。私。

「んん???、どうしよっかなぁ。まだ次の次の時間もあるから帰れないし。
ってか先生、前の講義の時に言いなさいよね?!」

なんとなく話しやすい人だな?と思っているうちに休講が決定した。

「ね、時間あるならお茶でもしない?」
お、女の人にナンパされた(笑)
まぁそれは冗談にしても、私もこの後の講義までは間が開くので、ご一緒することにした。

大学近くのカフェで席に着き、私はショートケーキのセットを注文した。
オレンジ色の彼女は「紅茶だけでいいや」と言った。

話をしていくうちにわかったのは、彼女の名前が“みく子”だということ。
ひとつ上の学年で、学科は違うということ。
そして、彼女は時たま路上で歌を歌っている、ということ。
「ぜひ聴きに来てね!大サービスしちゃうから」と、笑い混じりにそう言ってくれた。
あぁ、きっとこんなふうに微笑まれたら男の人はコロッといっちゃうんじゃないかなぁ、って感じの、小悪魔的な微笑みだった。

窓際に座った私たちに、午後の陽が差し込んでくる。
彼女のオレンジの髪がキレイに透けて輝いていた。

きっとこの人は、この髪の色のような歌声をしてるんだろうな。
ふとそう思った。

どこで歌っているのか場所を聞くと、最近始めたバイト先のすぐ近くだった。
「聴きに行きますよ、差し入れ持って。私も大サービスしますから。」

私の次の講義のため、みく子さんとは一時間くらいで別れた。
「じゃあね、奏湖。路上で待ってる(笑)」
「はい。楽しみにしてますよ。」

明日のバイト上がったら、早速差し入れを持って彼女の歌を聴きに行こう。

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一日目:黒編 02話

僕はこのニ年間、彼女を人としてみていなかった。

実際に逢ったこともないし

声を聴いたわけでもない。

本当のとこ、男か女かすら解らない。

なんせ今まで逢ったり、声を聴いたりをしたことがないからだ。


普段、音声なんかで話さないもんだから

『なんか照れるなぁ(笑)』

『そだねー!(笑)』

などと初めは、お互いにちょっと照れた感じで
若干テンション高めに、くだらない会話をしながら
お互いの緊張をほぐした。

しばらくして

『なにがいい?』

唐突に、みく子からの問いに

『んぁ?』っと

間抜けな応答を返してしまった。


『唄…。 聴きたいんでしょ?』と

みく子は、小悪魔的な微笑を浮かべてそうな声で言った。


『みく子の唄いやすい唄でいいよ。』

と何気ない応答にみく子は

『じゃぁねぇ・・・ちょっと待っててね!』

と言い放ち

ガサゴソと一旦席を離れた。


僕は、いったい何をするんだろう?とワクワクしていた。

『お待たせ・・・じゃぁ・・・』と

呼吸を整え

少し間を置いて。

『一番、みく子! 唄います!(笑)』と

みく子は、照れながら言うと

ギターを掻き鳴らし唄った。

(うおっ、生演奏かっ!
  っていうか一番って俺も続かないといけないのかっ)

と思いながら

聞こえてきたモノは

ガラスのように繊細で透きとおるような声で

僕の耳を駆け抜けていき

僕は、みく子に魅了されていった。

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一日目:黒編 01話

そう、あれはニ年前の夏の暑い日だった。

友達からあるサイトを紹介してもらった。

そして、初めて仲良くなったのが みく子 だった。

今でもみく子とは仲良くやっている。

僕らは、ネットワーク上でよく会話をした。

その会話ででてきたのが『蜜クン、花、歌』のキーワードだった。


『蜜クン』とは、彼氏の事らしい。

どうやら最近その『蜜クン』とケンカしたらしい

原因は髪型らしいんだが。。。

写真を送ってもらい確認したが。

(うわぁ・・・・)

と声が出てしまわんばかりのパーマだった。

何がすごいってもう、すごいとしかいいようがなく。

これが、ネットワーク上の会話でよかったと

心から思った。

次に印象深かったのが、色だった。

髪の色が見事なオレンジ色をしていたのだ。

肌は溶けていきそうな白だった。

僕は、みく子をなだめながら

話題を変えようと

みく子の好きな歌について聞いた。

彼女は唄を唄ってるらしく

僕はどんな声で唄うのか興味深々で

『音声チャットせぇへん? 唄めっちゃききたいんやけど!』



みく子に訪ねてみた。


みく子は少し戸惑いながらも

二つ返事で返してくれた。

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一日目:蜜編 過去 03話

詩人が口を動かして声を発すれば、詩が生まれ、
お笑い芸人が口を動かして声を発すれば、漫才が生まれるように、
歌を唄うべき人が口を動かして声を発すれば、そこには音楽が生まれるんだ。

世の中、そんなに単純なモノじゃないかもしれないけれど、
事実、実際、みく子の歌は、そういう歌だった。
それは彼女の髪の色と同じように明るく、周りを優しく包み込むように、響いていた。


【M線上のアリア】過去/03


寂れた飲み屋通りの路地が、みく子の場所だった。
誰もが「どうしてこんな場所で?」と思うような場所かもしれない。
何せアスファルトは汚れて、何でか知らんけど常に濡れてるような状態だし、
同じく何だか知らんけど、何故か常に週刊プレイボーイが捨てられているような場所だった。

「そういう場所にこそ、歌って必要だと思わない?」

これは唄い終えた後に、マックス・ドックスでみく子が言った台詞。
窓際の席からはM字型のブサイクなダックスフントが描かれた看板照明が見える。
みく子はフィッシュ・バーガーを(もちろん僕の奢りで)三個食べ、
ポテトとシェイクを(もちろん僕の奢りで)胃の中に入れると、満足そうに言った。

「だから歌って素敵なのよねぇ」

「まぁ、確かに素敵だった」と、僕は言った。
みく子の歌は確かに素敵で、しかも一定のファンがいるようだった。
寂れた飲み屋通りの路地のくせに、そこには十数人が集まり、みく子と共に唄っていた。
オッサンから若い子まで、みく子を囲んで一緒に歌っていた。

「何時も同じ場所?」
「そうよ、何時も同じ場所、じゃないと困るじゃん」
「誰が?」
「歌を楽しみに待っていてくれる人が、困るじゃん」

みく子は、多分、今夜、数千円を稼いだ。
ギター・ケースの中に千円札が数枚見えたから、間違いない。
確かにみく子は、あの横断歩道で「お金ないからね、少し稼ごうかと思って」と言った。

ところがみく子が、そのお金を何に使ったのかと言うと、
コンビニで食べ物を色々買い込んで、それを全て野良猫に与えたんだ。
一匹や二匹じゃない、もっと沢山の野良猫が集まる場所があって、そこに餌を置いた。

「財布落としちゃってから二日間、餌あげてなかったからね」

みく子は笑って、野良猫の中の一匹を撫でた。
なるほど確かにみく子は「少し稼ぐ」とは言ったけど、何に使うか言わなかった。
二日間、腹を空かせて考えていた事が「野良猫の為に金を稼ぐ」だなんて馬鹿げてる。
馬鹿げてはいるけれど。

「みく子、マックス行こうか」

……という経緯で、話は戻る。
それで僕達はマックス・ドックスにいる、という訳だ。
金を稼いだみく子が、僕の奢りでフィッシュ・バーガーを三個も食ったのも、
そのような理由による。

みく子は三個目のフィッシュ・バーガーを美味そうに平らげ、
シェイクをゾゾゾと音を立てながら吸い込むと、満足そうに息を吐き出して、
要するに、こう言ったんだ。

「そういう場所にこそ、歌って必要だと思わない?」

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一日目:蜜編 過去 02話

お腹を空かせた彼女を、僕はバイト先に連れて行く事にした。
安く食べさせてあげられると思ったからだけれど、考えてみるに彼女は無一文で、
仕方が無いから、奢ってあげる事にした。
僕は腹を空かせたペルシャ猫を放っておける性分ではないんだ。

「奢ってあげる、その代わり条件が二つある」
「なぁに?」
「名前を教えて。それから、歌を聴かせてよ」

「そうねぇ……」と考え込む仕草をして、彼女は笑った。
答は出ているのにわざと悩んだ仕草をしている、といった仕草だった。
赤信号が青色に代わり、僕らは並んで歩き始めた。
横断歩道の途中で、彼女は言った。

「みく子よ。それから歌は、お安い御用」


【M線上のアリア】過去/02


その時のみく子の食欲と言ったら。
もう目も当てられない。その日の稼ぎが全部飛んでいくかと思った。
いや、飛んでいった。お前どんだけ食うねん、と関西弁でツッコみたくなった。

ジャッキー・チェンの初期の映画に出てくる食堂でのジャッキーのように、みく子は食べた。
しかもその全ての皿を、美味そうに完食する。奢り甲斐があるというものだ。
まぁ、居酒屋の料理だから一品の量は(盛り皿でない限り)意外と少なかったりするし、
油モノは食べずに、あっさりとした料理を選んでいたから、食べ切れないという事はない。

それにしたって女の子にしては、食べすぎだ。
あの細い体の一体何処に、あれだけの量のもずくが吸収されているのだろう。
そして、あれは一体何杯目のもずくなのだろう。
僕は厨房の隅から、みく子が座る席を眺め、一人で感心していた。

「コラ、何ぼぅっと突っ立ってんの!」

突然、背後からの声と同時に、後頭部に鈍痛。
思わず「痛っ」と声を出すと、続けて笑い声が聞こえた。

「まだ忙しい時間帯じゃないから良いけど、何やってんの?」
「何だ、エリカか」
「何だ、エリカか、じゃないよ」

エリカは手に持っていたトレイをくるりと一回転させると、頬を膨らませた。
エリカは僕の幼馴染で、あろう事か今は同じ居酒屋でバイトをしている。
最近、好きな男が出来たとかで、割とテンション高めの日常を送っている。
まぁ、エリカの場合、常に恋多き女だけれど、今回はどうなる事か。

「別に、何もしてないよ」

横断歩道で見付けた女の子を連れてきて飯を食わせている、などと言ったら、
また面倒な詮索をされるのがオチなので、話を適当にごまかして、僕はフロアに出た。
周りの連中はエリカを可愛いなんて言ってるけれど、僕からしたら単なるお節介な女だ。

「飯、食った?」

僕はみく子の席に近付くと、皿を下げるフリをして、さりげなく聞いた。
みく子は満面の笑みで「食った!二日ぶり!満腹!」と言った。

「声が大きい!」
「あ、ごめん、満腹だったもので」
「じゃあ、二つ目の条件、歌を聴かせてよ」
「いいわよ、じゃあ仕事が終わったら、一緒に行きましょ」

みく子が当然のように言うので、僕は言葉を重ねた。

「何処に」
「路上に」

路上に行く、という表現も変だけれど、それは確かに正論で、
僕の仕事が終わるまで、みく子は席に座り続け、仕事が終わる十分前に店を出た。
もちろん、お金は先に、僕が払っておいた。

「蜜、今日A番? もう帰っちゃう?」

タイムカードを押して着替えようとしている僕に、エリカが声をかけた。
エリカと時間が合う時は、一緒に帰るようにしている。まぁ、家が近いから。
だけれどこの時の僕は、これから路上に歌を聴きにいかなければならない僕だったので、
当たり前のように「うん、今日はもう帰っちゃう」と答えた。

「エリカ、B番?」
「うん、まだ四時間も残ってる」
「まぁ、今日はあまり忙しくないし、頑張れよ」

この時、エリカは何かを悩んでいたのだろうけれど、何を悩んでいたのかは解らない。
エリカの事だから大半の悩みは恋に関する事で、好きな男の事で悩んでいたのだろう。
それとも、もっと深刻な……? いいや、それは無い。

店を出ると、息を吐き出した。
息を吐き出すと、それはわずかに白く煙っていた。
少しだけ寒気を伴った空気は、セロファン性の夜空を演出している。

「星、見えないね」

不意に、隣から声がした。
みく子だった。
みく子は星の無い星空を見上げながら、
……ああ、そうか。
まるで信号機を見上げるように星空を見上げながら、
僕の袖を掴んで、こう言ったんだ。

「じゃ、唄いにいこうか?」

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一日目:蜜編 過去 01話

その日、僕はまだ十九歳だった。

空はオレンジ色に染まり始めていた。僕はアルバイト先の居酒屋『呑み処 お松』の買出しの為に、次第に人が増え始めた夕暮れ時の街を、一人で歩いていた。玉子、片栗粉、納豆、小麦粉、醤油、メリケン粉……。「粉ばっかりだな」。メモ帳の内容を確認しながら、一人でブツブツ呟いていると、不意に赤信号に出くわした。街の中心部にしては割と小さな車道で、僕の近くに赤信号を待っている人はいなかった。

相対した向こう側には、女の子が一人。
オレンジ色の髪をした細身の女の子が一人、立っている。
少しだけ上を見上げて(恐らくは歩道信号を見ているのだろう)立っている。
両手で大きな何かを抱えている。それがギター・ケースだという事は、すぐに解った。


【M線上のアリア】過去/01


車道の信号が青色から黄色に変わって、すぐに赤色に変わった。
それに呼応するように、教師の設問に答える生徒のように、歩道信号は青色に変わった。
僕はメモ帳をポケットに入れると、歩道を渡り始めた。

ところが対面に立っていた女の子は、その場を動かない。
先程までと同じ姿勢のまま、少しだけ上を見るように、歩道信号を眺めている。
僕が彼女の横を通り過ぎる瞬間も、彼女の視点は、そこから動かないままだった。
まぁ、それほど不思議な光景でもない。
よく見かける光景とは言わないが、少し変わった人間など、世の中には沢山いる。

チカ、チカ、チカ。
青信号が何度か点滅して、それは赤信号に変化した。

彼女を少し変わった人間ではなく、だいぶ変わった人間だと思ったのは、その二十分後だ。
買出しを終え巨大なダンボールを抱えて歩く僕は、二十分前と同じ場所で、彼女を発見した。
彼女はやはり二十分前と同じように、対面の歩道信号を眺めたまま、微塵も動かなかった。
どうでもいいがダンボールが重い。中にはビニール袋にして五枚分の荷物が入っている。
そのほとんどが、粉だ。だから重い。

歩道が赤になったので、僕と彼女は、並んで立つ事になった。
ダンボールが重いので、僕は思わず、それを路上のアスファルトの上に置いた。
ふぅ……と息を吐き出し、両手首をブルブルと振り、一人マッサージ染みた事をしながら、
隣に立っている彼女の事を考えていると、何となく言葉が出てしまった。

「……あの、さっきから何してるんですか?」

「え?」と、まるで不意に撫でられたペルシャ猫のような声を出して、
彼女は首を動かすと、僕を見た。何だ、普通に人間らしい反応も出来るんじゃないか。

「あ、いや、さっきココを通った時にも、ココに立ってたから」

「ああ、そういう意味かぁ」と言って小さく笑った声は、
撫でられた手を舐めるペルシャ猫のようで、そもそもペルシャ猫がどんな声か知らないが、
まぁ、大体、彼女の声がそんな感じのペルシャ猫的な声だった、という事が伝わればいい。
とにかくそこから先の彼女は、冗舌だった。

「お腹すいちゃってさ」
「は? お腹?」
「昨日から何にも食べてないの」
「え? 何で?」

彼女は空腹に酸素を詰め込むように、大きく息を吸い込むと言った。

「財布、落としたから!
 もう考えられないと思わない? いくら入ってたと思ってるのか!
 とにかくアタシ、これから歌わないといけないの、でも元気が出なくってさぁ……」

彼女はギター・ケースを見せながら「歌えるかなぁ」と笑った。

「歌? 何処で?」
「路上で。お金ないからね、少し稼ごうかと思って」
「へぇ、なるほど、そりゃあスゴイ、君は歌を唄ってる人なのか」

彼女は「へへっ」と漫画的に、照れるように笑った。
彼女の切り揃えられたオレンジ色の前髪が、夕陽を浴びている。
小さな風に揺れたそれは、まるで小麦畑のように、金色に輝いていた。

「だけどね、でもね。
 お腹が空いてたというのはよく解ったんだけど、
 キミがずっとココに立っていた理由が、イマイチ解らないんだけど」

すると彼女はギター・ケースから片方の手を離し、それで何かを指差した。
歩道信号だった。その時、歩道信号は丁度、青色だった。
だけれど僕は、まだ渡りたくなかった。

「信号?」
「そう、信号」
「何でずっと信号を?」

チカ、チカ、チカ。
青信号が何度か点滅して、それは赤信号に変化した。

「青信号が点滅するのは何回なのか、ずっと数えてたの」
「うん」
「何回数えても、ずっと同じ回数なんだよ、ずっと変わらないの」
「うん」
「もしかしたら一回くらい、どこかで変わるんじゃないかなって思って、見てたの」
「何の為に……?」

僕が訊ねると、彼女は楽しそうに笑った。
まるで悪戯を思い付いた、小悪魔のような笑い方だった。
遠くに見えるビルの影がココまで伸びて、僕の影に覆い被さっていた。

「お腹が空いていたからよ」

彼女はそう言って、僕の目を見たんだ。

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一日目:しのめん編 01話

光が羨ましかったんだ。

物心付いた頃に、自分以外の人には
『色』という認識がある事を知った。

誰もが自分と同じように
濃淡のみで構成された世界を見ていると思っていた。

折り紙、クレヨン、絵の具、運動会の何組。
全てが同じ色だった。違うのは薄いか濃いかだけ。
色が解らないだけで、いじめを受けるようになった。

次第にいじめられるのにも慣れて
いじめる側はいじめる事に飽きて無視をされるようになった。
その影響で、高校を卒業するまでに友達と呼べる人は一人もいなかった。

地元から離れた大学に入ったけれど
大学での生活も今までと特に変わらない。
講堂の隅に座って黙々とノートを取る。
ただそれだけの日々。

ただ、特別これといって誰も話しかけてこないから
中学や高校に比べると随分楽だった。



そんなある日、いきなり話しかけられた。
最初は自分では無いだろうと思っていたけれど
トントンと肩を叩かれて、驚いて振り向いた。


「ねぇ、ノート写させてくれない?」


そこには綺麗なストレートの髪を揺らしながら
細身の女の子が悪戯っぽく笑っていた。


「黒一色だから見辛いよ?」


そう言いながら僕はノートを彼女に渡した。

彼女はみく子と名乗った。
それから何度か彼女にノートを貸したり
時には簡単な会話までするようになっていた。

気が付くと、彼女を介して別の人とも会話するようになり
その人達を介して、また別の人を知っていく事になった。

それが三年前の話だ。

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一日目:蜜編 現在 07話

悪魔は含むように笑っていた。
悪魔はオレンジ色のソファに座りながら、中指でサングラスの位置を直した。暗闇でサングラスをかける意味も解らないが、立派なレザー・ジャケットを着ている意味も解らない。悪魔? どう考えても単なる不法侵入者ではないだろうか。あとは変質者か何か。そうでなければ立派なレザージャケットを着ている癖に、下半身は全裸でいる意味が解らない。

目の前に座る人間を悪魔だと認識する為に必要な手段は、世の中に何個あると思う?実は一個も無い。それが悪魔だと実証する術など一個もない。でなければ中世ヨーロッパでの魔女裁判など、幾分かマシな結末になっていたはずだ。悪魔と人間を見分ける方法など無い。

「……悪魔?」
「イエス、お前達が求める限り、俺はその名で呼ばれるのさ」
「……悪魔、お前が本当に悪魔なら、ズボンくらいは履いたらどうだ」
「おっと、これは失敬、このジャケットに相応しいズボンの記憶が無かったのものでね」

悪魔は確信犯のように小刻みに笑うと、一瞬目を閉じて(と言ってもサングラスの下の目は暗闇では見えなかったが)、指を鳴らすと何事も無かったかのように立ち上がった。恐らく、僕が瞬きをした、ほんの半瞬。悪魔の下半身には、三本ラインのジャージが身に付けられていた。ドンキホーテで五百円くらいで売っているような、ピンクのジャージだ。

「これで不満は無いかね?」


【M線上のアリア】 現在/07


「いや……うん……まぁ」

不満が無いとか、そういう問題ではなくて、CG映画か手品でも見ているような気分だったし、そもそも目の前の男が何を目的にしているのか、解らない。いきなり悪魔ですと名乗られて「はい、そうですか」と思える訳が無い。だけれど目の前で一瞬にして三本線のジャージを出されたら、もしかしたら悪魔なのかもしれないなぁとも思えるし、もしかしたら腕の立つ変質者のマジシャンなのかもしれないなぁとも思える。どちらにせよ胡散臭い存在には変わり無い。

「僕を食いに来た、と言ったな」
「イエス、正確に言うと、お前の記憶を食いに来た」
「記憶を食う? どういう意味だ? アンタは僕を殺しに来たのか?」
「とんでもない。 真っ先に家畜を殺す馬鹿が何処にいる。 飼育しに来たのさ」

飼育? 見下すような言葉に一瞬、腹が立ったが、非常に悪魔らしい発言だ。悪魔的に正しい発言だと言える。もしかしたら本物なのかもしれない。悪魔が実在する、しない、という論点は、今は問題では無い。重要なのは、今、悪魔と思わしき人物が目の前にいて、僕に何かをしようとしている点であるし、それに対して僕はどう対処すべきか、という点である。
悪魔は立ち上がったまま、腕組みをして、僕を見下ろしている。

「……襲い掛るような真似はしないんだな」

悪魔は声を出さずに呼吸だけで笑い「悪魔はそんな真似はしない」と言った。数歩、歩み寄ると、僕の顔面に手を伸ばす。人間の手とまるで同じだ。爪が少しだけ伸びているような気はするが、特異な部分はない。悪魔は人差し指を立て、それを僕の額に当てると、こう言った。

「契約を結ぶんだよ。それで始めて、俺はお前の記憶を食える」
「……契約?」
「悪魔は紳士だ。俺達は記憶を食う代わりに、お前達に報酬を与える」
「……報酬?」
「記憶の味に応じて、お前の望みを何でも叶えてやるよ」

なるほど。
フランス料理にはフランス料理としての価格が、マックス・ドックスにはマックス・ドックスとしての価格があるように、悪魔にとっては、記憶にもそれ相応の価格がある、という意味か。記憶を食う?
「一気に食う訳ではないのか」と僕は言った。

「一気に食う訳が無いだろう。お前が死んでしまう。先程も言ったが、これは飼育だ。
お前は生き続けて、新たな記憶を増やし、俺に記憶を提供し続けて貰わなければ困る。
それが契約だ。解るかね、羊?」

「よく解ったよ」と言う寸前に、僕は笑った。
なるほど、紳士ぶってはいるが、何と都合の良い契約だ。この男は間違いなく悪魔だ。
生かさず、殺さず、飼い続け、最後には残さず食ってしまうんだろう、悪魔よ。それもいい。
僕は改めて笑い始めると「よく解った、記憶を食ってくれ」と言った。

「随分、物分りが良いな」

人差し指を額に当てたまま、悪魔が言った。
そうだな、このまま餓死していくのも良いけれど、記憶を食われて生き延びるのも良い。
世界を変えたいのだよ、みく子。君が笑える世界はどんな世界だ? 世界を変えてやる。

「まずは何を望む? 俺はそれに相応しい記憶を食ってやる」

どんなにグルメ家ぶってる貴婦人だって、肉を食う瞬間は、醜い欲を満たそうとしている。下品な欲を剥き出しにした表情をしている。悪魔だって同じだ。悪魔は、(まるで頭部をメスで切開したように)人差し指を動かすと、僕の脳みそを掻き分けた。そしてまた小刻みに笑った。

「ククククク……お前もか」

お前もか?
どういう意味か解らないが、悪魔は食料を探している。
そして我慢するように「早く望みを言え、もう待ちきれん」と呟いた。

「そうだな、まず……」

悪魔が記憶を食う瞬間を、僕は見なかった。
見てしまったら、これから先、記憶を食われる度に、思い出してしまいそうだったから。

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一日目:蜜編 現在 06話

部屋の電気を消す。
みく子がいなくなった部屋は静かだ。そして広い。
リモコンを手に取り、テレ・ビジョンの電源を点すと、下品な笑い声。

何が真実なのかなんて知りたくもないし、知る事さえ出来ないんだと思う。
みく子がいなくなった部屋で最初に考えたのは、これから何をするべきかという宛の無い感傷だった。みく子はいない。恐らくもう帰って来ない。部屋の隅に、みく子が好んで座っていた、オレンジ色の小さなソファがある。みく子が買ったソファだ。そこはみく子の特等席だった。僕はそこを見ないようにした。みく子がいない事を改めて確認させられるようで厭だったから。

ベッドに寝転んで、天井を見上げてみる。僕は何をしている? みく子がいなくなったのに。何にもしていない。みく子がいなくなった事実に対して、「みく子がいなくなったな」と、感傷的なナルシズムに耽っているだけだ。まだ一日も経っていない。何から数えて? 解らない。

寝返りを打とうとすると、オレンジ色のソファが目に映った。僕は顔を背ける。すると壁に貼られたポスターが見えた。外国のバンドのボーカリストが座っている、何の変哲も無いポスターだ、みく子が貼ったポスターで無ければ。僕は目を閉じた。すると何処からか、みく子の香りがした。香水ではない。石鹸の香りか。薄目を開けると、視点の定まらない枕元に、一本の糸。長い糸。窓辺の月明かりを浴びて金色に見える。たった一本。みく子の髪の毛だった。

まだオレンジ色の長髪だった頃の、みく子の髪の毛。
僕はそれを摘み上げると、唇に当てた。何だ、この部屋は、みく子だらけじゃないか。
そう思うと、また泣けてきた。
テレ・ビジョンの中で、名も知らぬタレント達が、また下品に笑った。


【M線上のアリア】 現在/06


僕に何が出来るかなんて解らない。きっと何も出来ない。
特に一年前にアルバイト先の居酒屋を辞めてからの僕は、まるで駄目だ。
この部屋から出る事も億劫だ。それでもみく子と一緒にいれば、週に何度か外に出て行く事もあったのだけれど、これから先の自分を想像すると、自分を嘲笑したい気分になる。一生、この部屋から出ようともせず、死んでしまうのではなかろうか。みく子を助ける事も出来ず、世界に影響を与える事も出来ず、餓死か? 餓死くらいが相応なのではなかろうか、そのうち僕は死ぬんだろうな。この虚無的な感傷に浸ったまま。何で此処にいるんだ?

何で此処にいるんだろう。良いのか、みく子を追わなくて。先程から台所の蛇口がポタポタと水滴を漏らしているのがウルサイ。止めるのも億劫だ。とにかく僕は動きたくないのだよ。誰とも関わりたくない。誰かと関わる事で、面倒な事情に巻き込まれたくない。傷付きたくない。

蛇口の水滴を止めにいく時に、もしかしたら水道管が破裂して怪我をするかもしれない。ならばこのままの方が良い。馬鹿らしい。数秒前まで、このまま餓死する事を夢想していた自分が、水道管の破裂に怯えているなんてな。馬鹿らしい。なぁ、みく子、何処へ行ったんだ?

変えたいな、みく子、世界を変えてしまえば、君は笑えるだろうか。
何にも出来なかったな。情けない。一緒に泣いただけだ。いや、僕が先に泣いた。
何にも出来なかったな。何にも出来ないのかな。本当に何にも出来ないのか、僕は?
くだらない命だ、僕の命なんて。誰の為にもなりはしない。ああ、変えたいんだ、世界を。


「相変わらず、虫の良い話だな」


突然、声が聞こえた。
僕は慌てて部屋を見渡す。男の声だ。誰だ?
みく子が部屋を出て行ってから、誰かが入ってきた記憶は無い。

「自分じゃ何も出来ないくせに、世界を変えたがっているんだろ」

暗闇の中で、男は笑って、そう言った。
僕は体を起こすと、異常に高鳴る心音を抑えるように「誰だ!」と叫んだ。
男は低い声で六四分音符を刻むように笑い、僕の叫びを吸い込むように「慌てるな」と言った。

「俺は、お前のような人間の元に現れる。
誰とも関係を築こうとせず、己の殻を破る事もせず、何の手段も持たず、
そのくせ世界を変えたいと思っているような、お前のような傲慢な人間の元にな」

暗闇の中で、男が何処にいるのかを、僕は見た。
部屋の隅。みく子の場所。彼女の特等席。そこに男はいた。
男はオレンジ色のソファに腰掛け、手と足を組んで、僕を眺めていた。

「こんばんは、羊。俺は悪魔だよ。お前を食いに来た」

蛇口の水滴が、またポタリと落ちた。
だけれどその小さな音は、僕の耳には届かなかった。

書┃籍┃化┃第┃一┃弾┃♪┃
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一日目:ロシュ編 03話

グォーーン!グォーーン!
キュルルルル…

エリカを車に乗せて、山道のワインディングを猛スピードで走らせる。

「ね?、ロシュ、怖いよ?。飛ばし過ぎだよ?」
「…」

頭から離れないミクを振り払うように飛ばしたい気分だ。

「ねぇ?」
「…」

やがて、小高い山の展望台に着いた。
駐車場に車を停め、エリカの方を見るとエリカがシートで小さくなって、上目遣いでこっちを見ている。

「ねぇ?ロシュ?。さっきから全然喋ってくんないじゃん」
「…あ、そうだっけか…ワリい。ちょっとさ、運転に集中してたからさ」

「ロシュって、時々そういう自分の世界に入ってるトコあるよね」
ぷっとふくれっ面してエリカはこっちを見つめてる。

「ゴメンな」
膨れたホッペにチュっとキスをした。

「もー、でも………。許す!!」
その瞬間、エリカの顔がぱあっと笑顔になる。

この笑顔にオレはやられたんだ。
だから、ミクと別れてエリカと付き合うようになったんだ。


すっかり日は落ちて、フロントグラス一面に広がる街の夜景が
ゆらゆらと…
キラキラと…
揺らめいている。

うっとり見つめるエリカの瞳を見ていたら、キスがしたくなった。
そして、キスをしようとした瞬間、ダッシュボードに置いていた携帯が鳴った。

「ううん。今は出ないで。」
エリカはそう言いながら、鳴り続けているオレの携帯を後部座席に投げた。


そのまま熱いキスを交わし、その夜はエリカと過ごした。

彼女のエリカとゆっくり一緒に過ごすことで、今日のミクの事をすっかり振り切ることが出来たようだ。



翌朝、後部座席に投げられたオレの携帯を見つけた。

その電話はミクからで、留守電が入っていた。
「蜜クンが…  彼が…  怒っちゃたの… 私…  もう…  やだ…」

泣き声混じりでよく聞き取れないのだが、ミクに何か大事件が起こったことは明らかだ。

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