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三日目:蜜編 現在 53話

「閉まっているな」

ヴィンセントが動かぬ扉に触れながら、僕を見た。
研究室の扉は開いたから、此方の扉も開くと思ったが、まったく何も予想しなかった訳でも無い。一応、セキュリティ・システムの世界的権威であるジェームス・ニコラ・ノートン邸の扉が(地下道とは言え)簡単に開くとは思えない。「……今、言ったろ、"開けよう"って」
僕はヴィンセントの右腕を手に取ると、その指先を自分の額に当てた。

「扉を開くのに必要な記憶は、どれくらいだ?」

ヴィンセントは小刻みに肩を揺らすように笑うと、静かに指先を広げた。
「失う事に恐れを感じなくなるのは、愚かだぞ、羊」
「得る事に怯えるのも愚かだ、ヴィンセント」
「ならば食おう、お前は何を望む?」

先程と同じ台詞を、もう一度。

「扉を開けろ、全ての答に繋がる扉だ」


【M線上のアリア】 現在/53


――ズンッ。
一瞬、墜落するような目眩の中で、僕は扉が開く音を聞いた。
重たい鉄の扉が、金属質な悲鳴を虚空に響かせながら、緩やかに開いていく。
静かに目を開ける。光は届いて来ない。「……これは?」

ガォゥン。ガォゥン。ガォゥン。
滑走路。車輪。ゼロ戦の両翼。鉄板のような座席。
扉が開く。重い。暗い。機械。照明。水槽。鉛色の無味無臭の機械音。

「……え?」

強烈な既視感。何処かで見た。何処で見た?
巨大な水槽。だが何も泳いでいない。脳髄を直進するような頭痛。
頭が痛い。何故だ? 暗闇から目の前に広がった光景。それは明らかに、研究室。
だが地下道の向こう側に在った、爺さんの研究室とは違う。何処か古臭い、旧式の施設。

(遺書は書きましたか?)

「……ウッ!? グァァアアァァッ!!」

激痛。今の声は。何だ。誰だ。

(戦場にはホタルがいる)

(それは無数に上昇する、魂のようだった)

(0に無限大を掛けても1にはならないのならば……)

先生を床に降ろすと、僕は出口を探した。
知っている。あの水槽の向こうに扉がある。僕は知っている。何故、知っている?
右手で頭を抑える。止まない頭痛。朦朧とする意識。あれ? 今、何が起こっているんだ? 僕は遺書を書いたか? 遺書って何だ? 此処は何処だ? 此処は研究施設。否、エリカの家の地下。水槽の向こうに扉が見える。とにかく此処から出なければ。(何の為に生きてる?)


――「蜜ちゃん、どうしたの!?」


扉を出て、何だかよく解らない階段を登り、細い廊下を通り、床に転がる僕を見付けて、誰かが叫んだ。……エリカ? 違うな。此処にエリカがいる訳が無い。だが随分、よく似てるな。
「蜜ちゃん! 何処から来たの!? 大丈夫!?」
エリカによく似た女が、床に膝を着いて、両手で僕を抱き抱えた。
「蜜ちゃん! 大丈夫!? どうしたの!?」
エリカによく似た女が叫ぶ。頭が痛い。異常だ。記憶を食われた影響か。否、少し違う気がする。とにかく、あまり揺らさないで欲しい。何処かで聞いた事がある声だな。ああ、そうか。

「……桐子か」

「え?」女の表情が、瞬間、固まった。
僕の意識は、そこで戻った。僕は、今、何と言った?
僕を抱き抱えた女が、確かめるように。「……蜜ちゃん、今、何て?」

目の前にいる女は、おばさん。エリカの母親。
僕が倒れている場所は、エリカの家の、一階の廊下だった。
天井から吊り下げられた豪華なシャンデリアが、少しだけ眩しかった。

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三日目:蜜編 現在 52話

「死んだ人間を蘇らせるのも、可能かもな」

僕が発した文字列に、ヴェンセントは反応しなかった。
研究室で先生から聞いた話。水槽で泳いでいた金魚……キリコは、死んだ訳では無い。
キリコが死んでいるならば、あの金魚をキリコと呼ぶのは変だ。魂を受容するのがアクセプトならば、キリコの魂は今、金魚の中に在る? 荒唐無稽だが、そう考えるのが自然だ。疑問は残る。ならばキリコの元の身体は、何処に行った? そして僕の魂は過去、何処に在った?

先生が見せた数枚の写真。真黒な金魚。蛙。鼠。
それらは過去、僕自身だった。先生は「まだ続きがある」とも言った。
塗り潰されたような黒。相反するような、みく子の白い肌。遺伝情報の欠損。アルビノ。
僕の黒髪。ニコラの嘘。悪魔の契約に汚染された研究室。そこで一体、何が生まれた?

「……エリカ」

思わず口から零れた単語。「どうした?」悪魔が問いかける。
「いや、……このまま真っ直ぐ進めば、エリカの家なんだなと思ってさ」
一直線に伸びる暗闇の向こうに、エリカの家が在る。瞬間、何故か、ほんの少しだけ。

僕は、そこに辿り着きたくなかった。


【M線上のアリア】 現在/52


「そういえば、研究室に来るまで、何処に行ってたんだよ?」

両肩を動かして、姿勢が崩れた先生の身体を背負い直すと、隣を呑気に歩く悪魔に、僕は問いかけた。実際、研究室でバスターに襲われた時、ヴィンセントが現れなければ、恐らく僕達は二人とも殺されていた。爺さんの最終的な研究(みく子を利用したアクセプト?)にとって、もしかすると僕の存在は、邪魔なのではないだろうか。存在しても、しなくても関係ない、では無い。僕が存在すると(そして何らかの真実に気付くと)不都合があるのではないだろうか。あの瞬間、バスターの液体化した指が先生の頭部と同化した。それから僕を見て「久し振りだ」と言った。その直後に、続けて言った。(そして今すぐお別れだ)。

「お前が来なきゃ、僕達は死んでたよ。でも何処に行ってたんだよ?」

図書室で僕の記憶を食った後、勝手に消えたりしなければ、余計な危険は少なくて済んだかもしれない。先生がヴィンセントを見る事が出来る(先生も"汚染された研究所"で悪魔と契約した一人なのだろうか)事に気付いた時点で、もっと話は早く進んだかもしれない。

「……あの大学には、継承者が居るようでな」

「継承者?」ヴィンセントが発した単語に、僕は同じ単語で訊き返した。
悪魔を見る事が出来る人間の条件。契約者と継承者。その片方。ビルの裏で猫を見ながら話した時も、継承者に関して、ヴィンセントは多くを語ろうとしなかった。唯一、言った言葉は「血。羽。刻印」。

「図書室の前を通った学生の中に、継承者が居たな」
「継承者がいると、何がマズイんだ?」
「チッ……」舌打ちの音が聞こえた。珍しい。悪魔が苛々している。

「継承者は俺達を食う。俺達が人間共の記憶を食うようにな。俺達の悪意を食うのさ。それを奴等は"消す"だとか"召す"だとか、奇麗な言葉で飾るがな。本質は俺達と変わらない。奴等は悪魔の"悪意"を食うのさ。それは俺達、悪魔にとって"死"と同義だ。気分が悪い」

成程。悪魔……ヴィンセントは、図書室で継承者の存在に気付いて、逃げたのだ。
悪魔にも苦手なモノがあるとは思わなかった。思わず僕は、小さく笑った。「……へぇ」
「……何が可笑しい、羊」
「別に。誰にでも苦手なモノってのは在るんだなと思ってさ」
「苦手なのでは無い。俺達が一方的に嫌っているだけだ。継承者など苦手なものか」
「あ、そ」

背中から先生の呼吸音が聞こえる。先程に比べて、随分と荒くなっている。大学からエリカの家まで、直線距離にすると、どれくらいだろう。それほど遠くは無いはずだ。そもそもエリカが共都大学を受験したのも「家から近いから」という、実にどうでも良い理由だった。あまり根拠は無いが、僕は意識を失くしているであろう先生に向けて、話しかけた。

「大丈夫、もうすぐ着きますよ」

大丈夫、呼吸は続き、心音は聞こえる。先生は死なない。
エリカの家に着いたら、おばさんが居るはずだ。事情を話せば救急車を呼んでもらえる。爺さんは家に戻るだろうか? 否、恐らく明日の昼間、爺さんはみく子に会う。家に戻るような時間は無い。そのまま研究室に戻ってくれると助かる。事前に爺さんに会っておきたかったが、事情は変わってしまった。色々と知ってしまった今、もう僕は爺さんに会わない方が良い。

爺さんが日本に越して来た理由も、今なら解る気がする。
何故、単なる団地育ちの僕が、気が付けば金持ちのエリカと幼馴染になったのかも。
爺さんは、全て知っていたのだ。全て知った上で、ずっと僕の成長を、監視していたのだ。

否、エリカと幼馴染になる、ずっと前から。
あの日、エリカが言った台詞【----"devil ate it" 404 NOT FOUND----】……頭痛。
何を言ったのかは思い出せない。だが今から思えば、核心的な事を、エリカは言ったんだ。

「扉だな、羊」

数歩先を歩いていたヴィンセントが、立ち止まる。
重い壁に手を当てながら、此方を振り返っているような気配を感じた。
先生を背負ったまま歩いている僕は、暗闇に浮かぶ、その姿を確認して、一言。

「開けよう、全ての答に繋がる扉だ」

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三日目:蜜編 現在 51話

暗い地下道には水滴が似合いそうなモノだが、水滴の音一つ聞こえない。
二人分の足音だけが延々と反響している。暗闇は一直線だ。行先に迷う必要も無い。背中越しに先生の呼吸音が聞こえて、既に意識を失っている予感がした。肩を上下させるように呼吸する度に、肺が膨らんだり、縮んだりしているのが伝わる。出来るだけ身体を揺らさぬように歩こうと意識すると、余計に身体が揺れる気がする。居酒屋で働いていた頃を思い出した。

お盆に乗せた大量のグラスを運ぶ時、液体を揺らすまいと視線をグラスばかりに集中してはいけない。そういう時こそ背筋を伸ばし、前を見て歩く必要がある。視線をグラスばかりに集中するほど、グラスの中の液体は呆気なく揺れる。バランスが崩れるのだ。液体を揺らしたくないのなら、前を見て歩く事に集中しなければならない。目的地ならば決まっている。

地下道は一直線に掘られている。
恐らく、研究室からエリカの家まで、このまま一本道なのだろう。配水管、下水道、あらゆる国家工事の影響を受けずに存在する地下道。異常ではあるが、今更、驚くべき事ではない。

「……今は何時なんだ?」

爺さんはパーティー(主催者は斉藤氏だったか?)に出かけているはず。この地下道がエリカの家の何処に繋がっているのかは知らないが、エリカの家の構造なら、よく知っている。まず先生を手当てしなければならない。爺さんさえいなければ、何とかなるはずだ。希望的観測。

思考すべき事柄は大量に存在するが、実行できる事柄は少ない。
思考を持て余しているかもしれない。後を振り返るな、オルフェウス。失うぞ。
今は只、何も考えずに前を、「……キリコ」。
足音。
「先生……みく子を使ってキリコを、と言っていたな……あれは一体どういう意味だ?」


【M線上のアリア】 現在/51


「それは俺に質問しているのか、羊」
「……ん、独り言だ」

ヴィンセントは暗闇の中で、小さく笑った。
悪魔との契約。あの研究所は汚染されていたと、先生は言った。
……"あの研究所"? 爺さんの研究室だろうか。否、だとしたら"この研究室"と言うはずだ。
そうでは無い場所。"あの研究所"。恐らく四十九年前、人体実験が繰り返されていた場所。

それは何処にある?
その研究所は悪魔の契約に汚染されていた。バスターは何と言った?
(……契約したのは俺じゃない。俺は契約者からの契約を交わしただけさ……いひっひ)
契約者からの契約? 例えばヴィンセントが、僕との契約を優先しながら、別の人間とも契約するという意味か? どういう意味だ。重複契約。共有契約。分割契約。よく解らない。

「……それに何のメリットがある?」

「メリットなど無い、最初の契約者以外にはな」
僕の思考を覗いたように、暗闇の中からヴィンセントが応える。
「お前ッ……僕の思考を!」虚空に反響。

「対価を得るのは第一契約者……最初の契約者だけだ。それ以外の重複契約者は、第一契約者が得る対価に対して、相応の記憶を提供しなければならない。無論、重複契約者が増えるほど、提供する記憶を分割する事が出来るから、望みの対価が巨大な場合、第一契約者は重複契約者を増やしたがる。それが重複契約と、共有契約だ」

ヴィンセントは書類を読み上げる検察官のように、抑揚の無い口調で言った。
重複契約。共有契約。要するに。
爺さん……ジェームス・ニコラ・ノートン博士は、"あの研究所"で、悪魔と契約を結んだ?
何時頃? 四十九年前。契約した悪魔の名前は……"コルト"。
それは研究所で働く全ての人間達を巻き込んだ、重複・共有契約だった。

爺さんは対価として何を望んだ?
"アクセプト"に関する何か。"キリコ"に関する何か。
そこに現在、"みく子"が関係している。(そして、恐らくは、僕も……)

「俺は分割契約を認めない……そう言ったな、羊」

もしも爺さんが研究所で働く全ての人間を巻き込んで、悪魔との契約を重複・共有しながら、対価を得ようとしたとして。さらに記憶を四十九年間に渡って分割しながら、悪魔に提供し続けてきたのだとしたら。その莫大な量の、記憶で……。

現在、一体どれだけ巨大な望みが叶えられると思う?

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三日目:蜜編 現在 50話

暗い道を歩いている。
研究室から地下道へ。先程とは真逆に進んでいる事になる。
相変わらず光は無い。ギリシア神話に似たような話があったな、と思った。
振り返ってはいけない。振り返れば大切な何かを失うだろう。それが何かは解らないが。

オルフェウスは冥界の途中で振り返り、大切な妻エウリュディケを失くした。
僕にとって、それは、みく子か?
それとも、もっと別の、失くし果てた過去から脈々と繋がる、巨大な何か。

記憶か。


【M線上のアリア】 現在/50


先生を背負い、僕は地下道を歩いていた。
ヴィンセントは退屈そうに隣を歩いているが、手を貸そうとはしない。
先生の呼吸は乱れていた。汗が止まらない。考えてみれば、得体の知れないバケモノに脳味噌をえぐられて、無事で済む訳が無い。あれは何だったのか。……アクセプト? あの瞬間、先生は言った。(アクセプトは完成しているのか。)あれがアクセプトなのだとしたら、みく子は一体、何をしようとしている? 表面上、先生の額には傷一つ付いていなかった。血も流れてはいない。だけれど先生の容態は、次第に悪くなっていく。背中が重い。

「……あの男、バスター、あのまま放っておいて良かったのか?」

僕が声を発すると、それは暗闇に反響した。
ヴィンセントが此方を振り向いたような気がするが、よく解らない。

「イエス。問題は無い、目が覚めても我々の事は覚えていない。どの道、お前達が侵入した事など、ジェームス・ニコラ・ノートンは気付いている。重要なのは、お前が契約者だと、相手に悟られぬ事だ。あくまでも"人間の犯行"だと思わせておく限り、相手も無理にお前を追跡したりはしない。お前を相手にするよりも、今は大切な用件に追われているだろうからな」

ヴィンセントは、彼にしては随分と流暢に、言葉を重ねた。
爺さんが追われている大切な用件?

「……みく子か」
「お前には、まだ時間がある」
「あれがアクセプトだとしたら、みく子はどうなるんだ」
「……否、あれはアクセプトでは無い」背後から声。先生が息を吐き出すように告げる。

「……話しただろう、あの研究は、元々、人体兵器の実験だったと……」
「先生、無理に話さない方が」
「Bは……単なる実験体に使われていたようだな……あれはアクセプトでは無い」

先生の心音が、背中越しに伝わる。
尋常では無い速度。人体兵器。戦争に使われるはずだった人間。

「アクセプトは……もっと美しい……」
「先生」
「だから私達は……夢を見た……美しいだけの……愚かな夢だ」

直感。先生は死ぬ。少なくとも、このままでは。死んでしまう。先程と真逆の道を進んでいる。先生を背負ったままで、あの道を戻る? 無理だ。先生を背負ったまま、あの長い梯子を下ったり、重い扉を開けたりするのは危険だ。無理だ。ヴィンセントが手を貸すとは思えない。

「先生、このまま真っ直ぐ進みますよ」
「……何?」
「真っ直ぐ進めば、エリカの家だ」
「馬鹿か……お前は……ッ!」声を荒げようとして、咳き込む。
このまま背負い続けていても、先生は死ぬ。ヴィンセントは何も言わない。僕は馬鹿だ。知っている。エリカの家に進むという事は、爺さんの家に進むという事。せっかく無事に研究所から逃げて来たというのに? 確かに馬鹿だ。「知ってますよ、僕は馬鹿だ」

「……置いて行け、此処に私を置いて行け」
「それこそ馬鹿を言っちゃいけない」僕は振り向きもせずに笑う。
「先生、やっぱりオルフェウスは、あの時、振り返っちゃいけなかったんだ」
「……何の話だ?」

エリカの家。
僕と、エリカと、爺さん。そして先生が、出逢った場所だ。
先生は、僕とエリカに夏休みの宿題を教えてくれた。もしも、その前から、ずっと前から、何十年も前から、先生が僕を知っていたとしても、僕にとっては、それが先生との出逢いだった。

「僕はエリカの家に行く。先生、文句は言わせませんよ」

先生は何も言わなかった。
否、呼吸が乱れて、何も言えなかったのかもしれない。
ヴィンセントの足音が聴こえる。悪魔の足音。僕は何を引き連れてるんだ?

「ククク……お前は本当に面白い」

一直線に、進む。
大切な何かを守ろうとする時に、後を振り返ってはいけない。
闇に、飲み込まれる。それでも目指しているのは、光だ。
光を、取り戻そうとしている。

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三日目:しのめん編 28話

Δレポートを読みながら気になる部分を大学ノートに書き写した。
それにしても「Menkichi Shinoyama」という名前が出てくることに驚かざるを得ない。
「志野山麺吉」は僕の高祖父にあたる。
つまり「ひいひいじいちゃん」だ。


志野山一族の歴史を調べていくと、今のように栄えているのは百年ほど前からだ。
それより以前については一般的な農家と変わらない。
高祖父が自ら人体実験の検体として自身を差し出したのが百年ほど前だと考えて間違いないだろう。

という事は、その時代で既に視神経の遺伝子を操作できるだけの科学や医学が発展していたということになる。
この国の歴史は少しねじれがあるように思える。もしかすると、近未来的だと想像しているようなことは既に実現しているのかもしれない。
例えばロボットだとか、バイオロイドだとか。


自分が拒絶していた一族が急激に栄えた原因。
そして、そのツケがなぜか僕に回ってきたであろうこと。
Δレポートをノートン教授が渡してくれたのは僕の名前が志野山だったのと、この目を見て自分の仮説が正しかったと理解したからだろう。


きっとこの目は高祖父である「志野山麺吉」が百年ほど前に受けた人体実験の影響だと考えられる。
だが人為的に遺伝子を埋め込んだとしても、それが急激に人を変えたりはしない。
その遺伝情報が代を重ねる毎に従来の遺伝情報の中に取り込まれる。
そうして人は変わっていくのだろう。


つまり、進化だ。


変わらないものなんてない。
僕らは常に変わり続けている。
大学ノートに「変わる=進化」と書き込んでΔレポートと共にそっと閉じた。


「明日はこのレポートを返しに行かないとな」


僕はそう呟いてから、部屋の電気を落とした。
外は雨が続いている。

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三日目:蜜編 現在 49話

「罰を受けろ、狼」

声と同時に、悪魔の影が次第に膨張するのを、僕は眺めていた。
悪魔……ヴィンセント自身の姿態は、軟体質なバスターの腕を掴んだまま、一寸とも動作すらしていない。只、影だけが生物のように膨らんでいる。否、膨らんでいるのではない。塩化ビニルの床に落ちた悪魔の影から、八本の腕が生えるのを、僕は見た。節足動物の腕。蜘蛛。

影が変化していく。おおよそ蛍光灯がヴィンセントの姿態をなぞったとは言えない形に、影が変化していく。影が、白目を剥き始めたバスターの影を飲み込んでいく。「ククククク……」
ヴィンセントも、バスターも、動いてはいない。バスターの影も動いてはいない。ヴィンセントの影だけ(否、この形状をヴィンセントの影と呼んでも良いものなのか)が、動いている。

蜘蛛の巣の罠にかけられた蝶を、蜘蛛が食っている。
バスターの影を蝶に見立てるのは割に合わないが、僕にはそう見えた。
やがて悪魔の影が、軟体の影の全てを覆うと、唇から泡を吹きながらバスターは失神した。


【M線上のアリア】 現在/49


「……何が起こった?」

僕の第一声は、悪魔に向けられたモノでも、単に目の前の状況に向けられたモノでも無い。何だコレは? 一体、何が起こった? バスターと呼ばれた学生が研究室に入ってきて、突然背中にケーブルを挿した。それを見て先生は「アクセプトは完成しているのか」と呟いた。バスターの身体が、人間とは思えないゼリーのような質感に変化した。バスターは僕を知っていて、久し振りだと言った。ヴィンセントが現れて、バスターに罰を与えた。契約者は、爺さん?

「……何が起きている? ヴィンセント、何だよ、この状況は!」
「……まだいたのか、羊。お前にのんびりしていられる時間など無いはずだがな」

ヴィンセントは気絶したバスターの腕を放すと、着物の裾を正しながら立ち上がり、面倒そうに此方を振り返った。影は、既に普段の影に戻っている。八本の腕など存在しない。

「説明しろよ、先生はココに来れば全てが解ると言ったんだ、何なんだよ、この状況は!」
「落ち着け、羊、見ていただろう? 身の程を知らない狼に罰を与えただけだ」
「罰? 何だよ、それは。あの変な奴と契約を結んだってのか」
「ククク……それは罰ではないだろう、お前が一番よく知っている」

じゃあ何なんだ、と声を荒げようとした瞬間に、悪魔は言った。
密やかに、だが冷酷で残忍に、死刑を宣告する裁判官より穏やかに、悪魔は言った。

「隷従だ」

今後一生、バスターは無条件に、悪魔達の被食者となる。
対象はヴィンセントだけでは無い。全ての悪魔が、一切契約無しに、彼の記憶を食える。
悪魔達に記憶を食われている事さえ、彼が気付く事は無い。只、永遠に食われ続けるのだ。
今、この研究室で起きた出来事さえ、彼が目覚めた時、既に一切、記憶には残っていない。
最初は普通に生活する事が出来るだろうが、記憶の隷従は続いていく。
気付かぬ内に、ゆっくりと記憶は奪われていく。

彼が廃人になるまで。
悪魔達は、緩慢に、彼を食い続ける。
拒否する事は出来ない。拒否する意味さえ知らないのだから。
此処で起こった出来事の顛末を、ジェームス・ニコラ・ノートンが知る由も無い。

「……それが、隷従?」
「契約した悪魔の名を、第三者の前で口にしてはいけないのさ」
「……お前、そんな事、今まで一言も、僕に教えてくれてないじゃないか」

十六符的に愉快そうに、悪魔は笑った。「大丈夫だ」
何が大丈夫なモノか。人前でヴィンセントの名を溢したら、僕も同じ目に遭っていたのか。

「契約と同じように、隷従にも相応の条件がある。悪魔は紳士なのでな」
「何だよ、条件って」
「契約した悪魔と人間が、互いの名を呼び合っている場合、それを人前で口にしてはならない。何故なら、それは信頼関係だからだ、羊。悪魔と人間が互いの名を呼び合うのは、信頼の証なのだ。それを裏切るから、罰が生まれる。悪魔を裏切る事は許されない」

要するに。

「お前は、まだ僕を信頼してないって意味だな」
「賢いな、羊、その通りだ」

悪魔は僕の額に手を当てると、指を広げて記憶を切開した。

「俺とお前は共生関係に入っている。
 だがお前は、まだ俺が信頼するには頼りない、か弱い羊だ。
 間違えても対等ではない。お前はあまりにも未熟だ。俺が名を呼ぶには幼すぎる」

フン……と鼻息を漏らす。別に悪魔に名前など呼ばれなくても構わない。悪魔に一人前と認めて貰わなくても結構だ。それに目の前の軟体人間のように、隷従なんて悲惨な目に遭わなくて済むならば、むしろ名前など一生呼んで頂かない方が好ましい。

「コイツ……バスターとかいう奴、僕の事を知っていたぜ」

悪魔に額を切開されたまま、僕は視点をずらした。
「知っているだろうな、お前も知っているはずだがな、もう食われている」
「食われている? お前が食ったのか?」
「否、身に覚えはない」

ヴィンセントが食った訳では無い、僕の記憶。
僕はバスターを知っていた? 何処で? 何年前? 何の繋がりで?
ヴィンセントでは無いのなら、誰が食った?(ククク……お前もか)一体、誰が食った?

「……バスターが名を吐いた悪魔だろう?」

床下から声。
仰向けに倒れていた先生が、上半身を起こそうとしている。
先生は激しい頭痛を振り払うように、何度か頭を左右に振ると、此方を眺めた。
バスターが名を吐いた悪魔。コルト。その悪魔が僕の記憶を食った?
何故、それを先生が知っている?

「本物の悪魔か……随分と久し振りに見るな」

「……先生?」
先生には、悪魔が見えている?
何故、先生にヴィンセントの姿が見えている?
悪魔を見る事が出来る条件は……継承者でなければ、一つだけ。

「五十年振りだな……正確に言うと、四十九年振りか……」

瞬間、脳内を通過する映像。
ゼロ戦が墜落していく。黒煙を上げながら、ホタルの群れの中へ。
……何だ、この映像は。壁。薄汚れた染み。天井。点滴。白衣。小高い丘。金魚。

「あの研究所は、汚染されていた……たった一人の手によってな。
 悪魔の契約に汚染されていたのだ……霧島桐子の停止を受け入れられないばかりにな。
 悪魔の力を借りてまで、成功させようとしたのだよ……研究所の全員を犠牲にしてまでな」

霧島桐子。水槽を泳ぎ続ける金魚。

「1を無限大で割ると、0になる。
 昔、お前にそう話した時、お前は理解出来ないと言ったがね。
 私は過去の罪を0にしてしまいたかったのだがな……やはり、そうもいかないらしい」
「……先生?」
「ニコラはBを実験体として使っていた……やはりニコラは、みく子を使ってキリコを……」

四十九年前。
そして今も、悪魔との契約は続いている。

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三日目:蜜編 発生 08話

「笠原です。今日はよろしくお願いします」

最期の朝、僕の部屋を訪れたのは、若い男だった。
正確に言えば、ココの研究所の所員の年齢層は、総じて若いと言える。
笠原と名乗る対面の男を見るのは、今日が初めてだった。柔らかい楕円を描く輪郭や、意志の強さを強調する視線は、今までに出逢ったどの所員よりも爽快感に満ちていた。中肉中背ではあるが、夏の名残か適度に日焼けしており、普段は部屋に閉じこもっている研究員とは思えぬ清潔感すら漂わせていた。笠原は並びの良い歯を見せるようにして笑った。

「実験は十二時〇〇分丁度に開始します。十時四五分までに研究棟に来てください」

前日、高木に聞かされていた情報を、笠原は繰り返した。
念を押されなくとも十時三〇分には高木がココに来て、僕は研究棟に向かうだろう。今更、逃げる気も無い。長年、待ち望んだ日が訪れた割には、気分は高揚しない。だからと言って何をする訳でも無いのだ。只、来るべき日が来た。莫大な報酬など、必要ない気がした。何の為に実験体になるのか? よく解らない。与えられた任務を完遂しようとしているだけだ。その後の事は解らない。笠原が脇に挟んだ書類の束から、一枚の紙を取り出した。白紙。それから筆。それを僕の前に置く。「時間までに、遺書を書いておいてください」

「……何?」
「遺書です、貴方の身に異変が起きた時の為に」

三ヶ月前の事故を思い出した。
桐子の事故。否、あれは事故では無いのかもしれない。
只、一分後、我が身に何が起こるか解らないという点では、同じだろう。

「……成程ね」
「報酬金の受取人も書いておいてください」
「……受取?」

悪い冗談だ。僕の代わりに報酬金を受け取る人間などいるものか。誰もいないからこそ、実験体として我が身を捧げたのだ。僕は白紙を睨み、暫し黙り込んだ。「それでは、後程……」笠原は部屋を出て、周囲は静かになった。僕は硯を取り出すと、墨を磨り、筆を持った。

ガォゥン。ガォゥン。ガォゥン。
滑走路。車輪。ゼロ戦の両翼。鉄板のような座席。

十一月十一日。最期の朝。
筆を振り下ろすと、白紙の上に、黒色の墨が散った。


【M線上のアリア】 発生/08 (発生編/完)


「時間です」

部屋を訪れた高木は、普段通りの高木だった。
三ヶ月前の桐子がそうだったように、僕を光と呼ぶ人間も、もうココには存在しない。大半の者は僕を"MIX_2"もしくは略称として"M2"と呼び、僕と深く関わった者は、僕を独特の発音で"ミツ"と呼んだ。高木だけが普段通りだった。「行きましょう、光さん」

「ああ」とベッドから腰を上げかけて、僕はフと、部屋中を眺めた。
何も無い部屋。窓も無い部屋。食事を配膳される台と、小さな椅子が在るだけの部屋。
その小さな椅子に、あの頃、桐子は座っていた。(途中からは高木が座るようになったが。)
何も無い部屋だが、壁には一丁前に染みがあり、どの位置にどんな染みが在るのかを、僕は覚えてしまった。染みが、何も無い僕の部屋にとっての家具だった。僕はそれを眺めた。

何故だか急に、この部屋を見るのは、これが最期になる気がした。
実験が終わったら、ココに帰ってくるはずなのに? 多分、恐らく、そのはずなのに。
それでも今、この部屋を眺めておかなければ、きっと深く後悔するような予感がしたのだ。

桐子が居た部屋。
忘れてしまうかもしれないが、覚えておきたい風景。
桐子は今、忘れてしまう事も、覚えておく事も、何も出来ない場所にいる。
止まった時間の中で、呼吸すら止めて、生きている。

「行きますよ」

高木が扉を開けたまま、待っている。
僕は息を深く吸い、それを数秒、肺に溜めてから吐き出した。
「……行こうか」
秋の終わりの廊下は冷たく、浸としている。
窓から枯木が見え、何時だったか桐子と話した日の事を思い出した。
桐子が羽織った、濃紺の、その薄手のカーディガンの、触れずに伝わる温度を思い出した。

(甘美ね……それが永遠に続くのだとしたら)

ああ、甘美だった。
それが永遠に続くのだとしたら、甘美だった。
だけれど、そこで止まってしまったら、きっとそれは甘美では無かった。
変化し、成長し、辛酸と共に味わうならば、きっとそれは甘美だったのかもしれない。

ガォゥン。ガォゥン。ガォゥン。
滑走路。車輪。ゼロ戦の両翼。鉄板のような座席。
否、それは巨大な研究棟から響き渡る、鉛色の無味無臭の機械音。

「此処が実験室です」

扉。
高木の声が聞こえた気がする。
聞こえなかった気もする。

「私が付いて行けるのは此処までです」
「そう、どうもありがとう」
「それでは」

踏み出す。一歩。
ガォゥン。ガォゥン。ガォゥン。
扉が開く。重い。暗い。機械。照明。水槽。
点在する白衣。
視線。

「遺書は書きましたか?」

白衣の男の声がして、それが笠原だと気付くまでに数秒を必要とした。
顔の下半分をマスクが覆っていた。
笠原の肩越しに巨大な水槽が見えて、その照明の下を、大量の金魚が泳いでいた。

「ああ、書いた、高木に渡したよ」
「そうですか、それは良かった、それでは実験の準備をしましょう」

笠原が僕を導くように歩き、僕はその後を付いて歩いた。
遠くに日本人離れした長身の背中が見えた。ジュルジュ主任の背中。
実験の詳しい内容は、最期まで伝えられなかった。
当然だ。これは医療手術では無いのだ。モルモットに実験の意図を説明するか?
今から我が身に、何が起きるのかは想像も付かない。だが既に覚悟ならば出来ている。

報酬など必要ない。
今更、莫大な報酬を手に入れても意味は無い。
只、我が身に訪れた任務を完遂する為に、僕は此処に居るのだろう。
円状の寝台が見える。無数の管。巨大な機械。小さな水槽。一匹の金魚。赤色。

ゼロ戦が墜落していく。黒煙を上げながら、ホタルの群れの中へ。
麻酔を打たれ、眠りに落ちる瞬間、僕は思った。
心残りは君だけだ、桐子。

次に僕の目が覚めた時、また君と会話が出来たら良いのに。
その為に、桐子。
止まった時間の中でも良いから、どうか君は生き続けてくれ。

もしも時間が再び動けば、きっとボクラは、また笑って話せるはずだ。
何も要らない。莫大な報酬など。何の為に生きてる?
ああ、桐子。僕は、只、君と話したい。
その為に生きていたい。

――もしも私の身に万一の事態が起きた場合は、報酬金を分割し、霧島桐子の毎月の生存維持費として使って頂きたい。私が手にする報酬金は、霧島桐子が彼女自身の時間を取り戻す為に使って頂きたいのです。私にとって霧島桐子とは、キリコ=ノートンでは無くて、やはり今でも霧島桐子なのですから。どうか彼女を、生かして欲しいのです。私が死んだとしても、彼女の時間が動く日を、私は静かに祈りたいのです。

ガォゥン。ガォゥン。ガォゥン。
こんな遺書に意味は在るのかね、桐子?
君ならば笑って破り捨ててしまうかもしれないが、それでもね、桐子。
全てが暗闇に落ちていく瞬間に、僕は希望を残しておきたいのだよ、次に目覚める希望を。

戦場にはホタルがいる。
それは無数に上昇する、魂のようだった。
0に無限大を掛けても1にはならないのならば、桐子。
僕は今、此処に1を残しておこう。

もしも君が目覚めたならば、その無限大は、君が掛けておいてくれ。

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三日目:蜜編 発生 07話

ゼロ戦が墜落していく。
あの操縦桿を握りしめた戦友の顔は知っている。名前は知らない。
黒煙。前方に爽快な青空。雲。落下音は聴こえないが、数秒後には爆発するだろう。

戦場にはホタルが存在する。
それは金色に発光しながら空中を飛び回る。上昇して往く無数の魂のようにも見える。
それがホタルでは無いと気付くのが、あと数秒遅ければ、僕は機銃の直撃を受けただろう。

ゼロから生まれ、ゼロに帰す。
ゼロは連続し、再び次のゼロを生むだろう。しかしゼロはゼロで在る限り、ゼロに過ぎない。ゼロに「在る」だとか「無い」だとか、そんな知覚を求めてはいけない。ゼロは、ゼロなのだ。
ゼロには意味が無い。理由が無い。発生も消滅も無い。前進も後退も停止も再開も無い。
それが無い事さえ存在しない。

「1を無限大で割ると0になる?」

ならない。
0に無限大を掛けたら1になるのか?
ゼロ戦が墜落していく。黒煙を上げながら、ホタルの群れの中へ。


【M線上のアリア】 発生/07


「何だよ、その問題は?」
高木が出した変な問題に、僕は露骨に厭な表情で返答してみせた。
「単なる数学上の理屈です。1を無限大で割ると0になる」
透明な袋から液体が滴り落ちている。無音に近い午前。高木との会話は退屈では無い。だが大方、馴れた。高木との会話は、意思の疎通を目的とした会話では無い。単に互いの思考を吐露しあう為の会話だ。それでも共有出来るモノが無いワケでは無く、共感出来るモノが無いワケでも無い。「1を割る? よく意味が解らないね」高木は特に問題を重ねようとしなかった。

高木は研究所に来る事がなければ、教師になりたかったらしい。
子供達に今のような出題でもするのだろうか。馬鹿らしい。飯を食うのも難儀な時代に、数字を捏ねくり回して、何が楽しいのか。無音に近い午前。無音に近い理由は、何となく解る。

「そろそろ始まりますね」

霧島桐子の人体実験が始まろうとしていた。
所内の多くの人間達が、東側の研究棟に集まっている。
霧島桐子を霧島桐子と呼ぶ人間は、もう此処には僕以外には存在しない。大半の者は彼女を"MIX"と呼び、桐子と深く関わった者は、彼女を独特の発音で"キリコ"と呼んだ。実験は失敗する……と高木は言った。無論、僕の前だけで吐いた台詞だろう。しかし所内の人間達の大半の予想も、高木のそれと大差は無かった。資金が足りない。なのに実験を先延ばしにする時間は無い。否、時間はある。今まで散々、待たされたのだから。ノートン博士だけが、延期を許さない。「それはエゴだ」高木は呟いた。研究者のエゴでは無くて、只、それは……

ズンッ。

突然、低い、地震にも似た振動。
東側。低音。地震では無い。点滴の管が揺れる。
「……何だ?」直感を意識的に遮断する為の、意識的な発声。

高木が顔を上げる。「東側の研究棟ですね」
揺れは小さく、今日が無音に近い日で無ければ、気付かない程だった。
それは本当に小さく、小さく、小さすぎる程の揺れだったのだ。気付かずに過ごせる程の。

ゼロ戦が墜落していく。
あの操縦桿を握りしめた戦友の顔は知っている。名前は知らない。
黒煙。前方に爽快な青空。雲。落下音は聴こえないが、数秒後には爆発するだろう。

戦場にはホタルが存在する。
それは金色に発光しながら空中を飛び回る。上昇して往く無数の魂のようにも見える。
それがホタルでは無いと気付くのが、あと数秒遅ければ、僕は機銃の直撃を受けただろう。

1を無限大で割ると0になる?
解らないな、そんな難しい問題は、考えたくも無いんだ。
0に無限大を掛けたら1になるのか?
ゼロ戦が墜落していく。黒煙を上げながら、ホタルの群れの中へ。



この日、霧島桐子の時間は止まった。



原因は実験開始時の、機械の誤作動、という事になっている。
実験開始から僅か一分で、霧島桐子と、その馬鹿げた人体実験は終わりを告げたのだ。
桐子は死ななかった。代わりに彼女の時間は止まった。見る事も、聞く事も、話す事も、ましてや動く事も、永久にしなくなった。高木は、それを植物状態と呼んだが、実際には少し事情が違う、とも付け加えた。彼女は実際に、現実の中で"止まった"のだ、と言った。

ノートン博士の「スクリプト」は、細胞の成長を停止させる事を第一の目的としていた。結局、ノートン博士は桐子の病の進行を止めたかったに過ぎない。随分と安易な発想だ。発見された四体の新生児の研究データから、彼は細胞の成長を停止させる為のヒントを得た。
「死なない人間を作りたいんですよ、我々は」高木は自嘲気味に言った。

だが本当に、全ての細胞が成長を停止したら?
細胞は新陳代謝を繰り返さなくなり、髪は伸びず、爪を切る必要も無い。
体験は脳にシワを刻み込まず、一秒前に起きた出来事を、一秒後には忘れてしまう。
呼吸する事は無く、心臓が血液を全身に供給する事も無い。そう、全ては"止まった"のだ。

「……それは、死んでいるのと、どう違う?」

それでも桐子は生きていると、高木は言った。
桐子の体は腐らず、滅びず、どれだけ年月が流れようと硬直する事さえ無い。
桐子は0と1の狭間で思考しているが、それが彼女の脳に記憶として刻まれる事は無い。
今、この瞬間の姿のままで、止まった時間を、桐子は永遠に生き続ける事となったのだ。

最初からノートン博士は、それを狙っていたのだ、という噂が流れた。
明らかに不足した資金では、本来の実験を計画通りに成功させる事は難しく、だからこそ機械の誤作動は意図的なモノだった、という噂が流れた。最初から実験を成功させる気は無かった。只、現在の桐子を、現在の状態で保存する為に、ノートン博士は実験を強行したのだ。そういう噂だった。

どうでも良い。そんな事は、どちらでも良い。
只、桐子が、あの瞳で話しかけてくる事は、もう二度と無いのだな、と思った。あの細い手で触れたり、あの長い髪が揺れたりする事は、もう二度と無いのだな、と思った。あの笑い方で笑ったり、あの怒り方で怒ったり、夕陽を眺めて考え込んだりする事は、無いのだな、と思った。そう考えて、僕は静かに泣いた。

(ねぇ、光クン、何の為に生きてる?)

桐子は生きている。
死んでいるのと変わらない姿で生きている。
桐子は止まった。
生きながらにして、止まってしまった。
生きながらにして、止まってしまった。

ああ。

ジョルジョ派の計画は速やかに進み、三ヶ月後、僕の人体実験の日が訪れた。

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三日目:蜜編 発生 06話

検体"MIX"――霧島桐子を使用した人体実験の開始日は、八月十五日に決定した。
続けて翌日、検体"MIX_2"、即ち僕の人体実験の開始日が発表された。十一月十一日。
おおよそ三ヶ月の誤差が生じる理由は「ノートン派」と「ジョルジュ派」の確執に他ならない。
以下は高木から聞いた、研究所内の噂話。

長年に渡る人体実験計画は、現状で言う「ジョルジュ派」の研究が元になっていた。ジョルジュ主任の研究はイタリア軍の研究資料を発展させたものらしい。研究の詳しい内容を聞く事は出来なかったが、積年の間に、それは既に全く別の研究となっていた。高木はジョルジュ主任の研究を「アクセプト」という単語で呼んだ。意味は解らない。僕はその人体実験の為に待機し続けているらしい。

ところが一年前にノートン博士が提唱した論理は、時流に逆らうものだった。
再度、イタリア軍の研究資料(それは戦時中の研究資料である)に立ち返り、アクセプトとは別方向のアプロウチを試みる。それがノートン博士の言い分だった。ノートン博士が提唱した理論は「スクリプト」という単語で呼ばれた。それは細胞の成長を停止させる事を第一の目的としている、と高木は言った。何故、ノートン博士は今更、わざわざ戦時中の古い資料を持ち出したのか?

桐子が、病に冒されたからだ。
それ以外の理由は考えられない。ノートン博士は止める気なのだ。桐子の病の進行を。恐らく「アクセプト」では、それは叶わないのだろう。ノートン博士は古い論理の中にこそ活路を見出したのだ。桐子を失わない活路を。ところが、ここに来て問題が発生する。斉藤夫人がノートン派の人体実験に対する資金協力を取り下げたのだ。理由は容易に推測出来る。斉藤夫人が、桐子を失わんとするノートン博士の研究を、面白く思っている訳が無い。ジュルジュ派への資金協力は引き続き行われていたが、ノートン派の研究は人体実験を目の前に暗礁に乗り上げていた。しかし……

ノートン博士には時間が無いのだ。
否、桐子には。
検体"MIX"――霧島桐子を使用した人体実験の開始日は、八月十五日に決定した。


【M線上のアリア】 発生/06


再び、夏が訪れていた。
桐子が研究所を去った夏から、一年が経った。
ところが桐子は今、此処にいる。一年前とは、まるで違う立場で。

「光クンの実験日も決まったのね」

八月六日。
精神神経科へと続く病棟の廊下の途中で、桐子と出会った。既に身辺が慌ただしくなっている桐子とは、廊下で擦れ違うのも珍しくなった。それは偶然と呼ぶべきか、たまたま同じ時間にこの廊下を渡る事は、常時であれば考えにくい出来事だった。今となっては会話どころか、目を見る事さえ難しい。ああ、桐子はこんな声だったなと、どうでも良い事を僕は考えた。

「ああ、決まった。君の実験の、三ヶ月後だ」
「三ヶ月後か……自分がどんな状態になっているのか、お互い想像付かないわね」

何故か、桐子は愉快そうに笑った。
「想像付くさ、莫大な報酬を手に入れて、こんな場所とはオサラバしてるよ」
ところが冗談めかして言った僕の台詞に、桐子は特に反応しなかった。代わりに僕の目を一直線に見詰め「今の光クンを忘れないからね」と言った。
「どういう意味?」
「ううん、言葉通りの意味よ」
「そう言えば、子供が生まれたんだろ? 男と女の双子だったっけ」
桐子は「うん、そうね」と言って、それ以上は話題を続けようとしなかった。考えてみるに、子供の面倒は誰が見ているのだろう。ノートン博士も、妻である桐子も、毎日此処にいるのに。……野暮な詮索だ。いくら資金不足に悩んでいる研究所とは言え、所長の立場にいる人間だ。手伝いの人間を雇う金くらいはあるだろう。

「……ねぇ、光クン、覚えてる?」
「何を?」
「もしかしたら子供なんて産まずに、ずっと現世代だけが生き続ける事が出来るなら、何かを学んで、それを永遠に忘れずにいられるのなら、もしも人間が死なずにいられるのなら、その方がずっと、世界の為になるんじゃないのかしら、という話」

ああ、と声を漏らしそうになった。
それはジョルジュと琴乃が結婚した夜、不意に桐子が呟いた台詞。
あれから僕の中で、音も無く渦を巻き続けていた台詞。意味を訊きたかった。意図を知りたかった。あんな事を言いながら何故、桐子が結婚したのかも、子供を産んだのかも、ずっと僕には理解出来なかった。その答が、この瞬間、僕の目の前に立っていた。だけれど僕には、その答を求める事が、どうしても出来なかった。

「……ああ、覚えてる」
「だけど死にゆく人間が、死を否定しようとするのは、正しい事なのかしら」
「あ……」

何も言えなかった。何もだ。
この瞬間、吐き気がする程に、僕は無力だった。
桐子は病に冒されている。それは何時からだった? 知らない。解らない。
僕は桐子を病から救う手段も、守る立場も、勇気づける言葉さえ、何一つ持っていなかった。
正しい事。間違っている事。知らない。解らない。
僕は無力だ。

「ねぇ、光クン、何の為に生きてる?」

廊下の角から、白衣を来た女性研究員が桐子を呼んだ。
桐子は小さく返事をすると、去り際に僕を振り返って、申し訳なさそうに笑った。
僕は右手を上げ、何故だか桐子に手を振ろうとしたのだけれど、やはり何故だか止めた。
桐子の背中は酷く小さかった。

それが、僕が最期に見た、桐子の背中で、
それが、僕が最期に聞いた、桐子の言葉だった。

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三日目:蜜編 発生 05話

「久し振りね、光クン……」

病棟の廊下で一年振りの桐子を見たのは、高木が人体実験の開始を告げてから、二日後の夕方だった。桐子自身は既に一週間も前から此処に来ていたらしい。会わなかっただけだ。そう、会わなかっただけなのだ、と僕は自分に言い聞かせた。一年振りに見る桐子は随分と痩せて見え、それが彼女の壊れてしまいそうな輪郭を、より際立たせているように感じた。

廊下の窓から、斜に構えたオレンジ色が射し込んでいる。桐子は痩せた。頬は削げ、手足は細く、肌は白くなったが、それは皮肉にも彼女の美しさを強調していた。頭には包帯を巻いている。その全てが、今、オレンジ色に染められている。僕は、只、彼女を眺めた。
桐子には夕陽がよく似合う、と僕は思った。


【M線上のアリア】 発生/05


再会の喜びを分かち合う時間など無い。僕と桐子は現在、互いに実験体として生活する存在に過ぎなかった。のんびりとした会話を共有する時間など無い。たまに廊下で擦れ違う際に、一言二言、交わすだけの関係だった。何故、桐子が? 当然の疑問が湧き上がる。今、僕の話し相手は高木だった。高木は僕の疑問に、小難しい表情で、何時も明確な解答を与えた。

突然、人体実験の開始が決まった要因は、大きく分けて二項目。
一つは資金の問題。人体実験の構想は何年間にも渡って進められてきたが、この研究所には、それを実践するだけの資金が無かった。そこに斉藤財閥が現れた。正確に言うと、斉藤夫人が関与する事になった。これは所内の噂にしか過ぎないが、ノートン博士が桐子と結婚する前に、深く関係を持っていたのが斉藤夫人だった。不倫関係だったのだ。ノートン博士が結婚してから、研究所には表面的な部分で斉藤夫人からの接触が増えた。要するに……

「囲っておきたいんだな」

高木の話を聞きながら、僕は鼻で笑った。少なくとも斉藤夫人には、ノートン博士を手放す気など無いのだろう。ノートン博士としても資金的な協力は喉から手が出るほど欲しいはずだ。己の不倫問題などで研究を無碍には出来まい。斉藤財閥からの豊富な研究資金を確保して、人体実験の構想が具体的に進み始めたという事だ。恐らく、それが一年前。ノートン博士と桐子が結婚した直後。職員・研究員達の「人体実験が始まる」という噂話を、僕はよく耳にした。しかし実際には、こうして一年待たされた。そこには、もう一つの要因が関係する。
戦前の研究資料の中から信じられないモノが発見されたからだ、と高木は言った。

「……それは何?」
「冷凍された四体の新生児です」
「……冷凍? 四体?」
「恐らく戦前にも、多くの人体実験が行われたのでしょう。先の大戦中には、日本では研究こそ止まっていましたが、ドイツとイタリアでは引き続き研究が続けられていました。その頃の実験体でしょう。白色人種の新生児です。冷凍されてはいますが、まだ生きているようです」

高木は聡明でありながら、少々冗舌すぎる面があった。この瞬間も、僕は聞かなければ知らずに済んだ情報を(否、自ら求めた情報の結果ではあるけれど)知ってしまう事となった。
「その辺の事、詳しく知らないな、何の研究をしてたんだ?」
「人体兵器の研究です」
高木は簡単な公式を解くように、一切、何の躊躇も無く、それを言った。そこには疑問・困惑・遠慮といった人間的で情緒的な感覚が欠落していたと言っても良い。人体兵器の研究?
人間を冷凍する意味がよく解らないが、とにかくそれは戦争の為の研究だったらしい。

「だとしたら僕は……桐子は、人体兵器を生み出す為の実験素材なのか?」
「……貴方の役割は、実験に協力して、報酬を得る事ですよ」

立ち入ってはいけない。立ち入ってはいけないのだ。僕は莫大な報酬を得る為だけに我が身を捧げたのだし、僕と桐子は何の関係も無い。それに高木に詰め寄るには、点滴の針が邪魔だった。それ以上、何も問わずに、僕は高木の声に耳を傾ける事となった。高木は話した。

発見された四体の新生児は、それぞれ"A"・"B"・"C"・"D"と名付けられた。
その中から、まず"A"は解凍に失敗し、続いて"B"の解凍は成功した。
"A"は解凍に失敗した検体として研究素材となり、"B"は解凍に成功した検体として研究素材となった。(という事は驚くべき事に、現在"B"は生きているのだ。)"C"と"D"は冷凍状態のまま研究素材となった。何故、桐子のコードネームが"MIX"と呼ばれるのか?
検体"MIX"。
即ち、それは戦後の研究データと、戦前の四体の新生児"A"・"B"・"C"・"D"の実験データを、融合したからに他ならない。霧島桐子は、検体"MIX"になるのだ。……何の為に?

桐子の体は、病に冒されている。
高木が告げたのは、僕の点滴を終え、部屋を出る直前。
ノートン博士とジョルジュ主任の意見が分かれたのも、それが原因だと言った。

ノートン博士は、桐子を生かそうとしている。
否。
桐子を、死なない人間に変えようとしている。

馬鹿げている。
研究者の考える事は馬鹿げている。
それは嘘か真か解らないような、随分と馬鹿げた絵空事だった。
……桐子が死ぬ?
部屋の扉を閉める直前、高木は言った。

「人体兵器は作りませんよ……もう戦争は終わったんだ」

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