ロシュ編
蜜編
サク編
蓮火編
アリエス編
黒編
しのめん編
奏湖編
ちこ編
志津編
タイキ編
ゆん編
なつめ編
卵茶編
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
■ロシュ
みく子の元カレ。
二枚目、頭脳明晰、スポーツ万能で浮気者。
みく子と別れてエリカと付き合いながらも、みく子に未練がある人。
■蜜
みく子の現彼氏。
みく子のアバンギャルドなパーマを見て怒った。
世界を救いたいと思ってる人。
■サク
みく子の初恋の人。
みく子のことだけを考えながらも、人生に絶望してる。
悪魔と契約なんかしちゃってる人。
■蓮火
みく子の知り合い。
路上ライブで知り合い、アバンギャルドなパーマを見て
「とりあえず、そのパーマだけは直せよ!」と路上で叫ぶ人。
■アリエス
みく子と同じ研究室の学生。
先輩には卵茶もいる。
教授にいろんな意味で愛されてる人。
■黒
みく子のチャット友達。
るどんとビリヤードしたりもする。
みく子と実際に会ったことはない人。
■しのめん
みく子の友達。
どう見ても二児以上の父親としか思えない老けた大学生。
色の識別が出来ない人。
■奏湖
みく子の元後輩。
大通りにある24時間営業のマックス・ドックスの元気な店員さん。
みく子のライブポスターをそこら中に貼りつけた人。
■ちこ
みく子のストリート友達。
みく子と同じようにストリートで歌ってる。
昼は喫茶店、夜はダイニングバーじゅごんで働いている人。
■志津
みく子の友達。
「ふろーら・しょうだ」でバイトしてる。
落研で「るど」と漫才コンビを組んでる人。
■タイキ
蓮火の兄。
タクシードライバーをしている。
弟の蓮火のことをいつも考えてる人。
■ゆん
みく子の友達。
普段はたまにメールでやりとりしてる。
みく子のライブのポスターを作った人。
■なつめ
みく子の高校の同級生。
高校時代はみく子の生演奏を聴いたりしてた。
現在は立派に社会人をしている人。
■卵茶
みく子のゼミの先輩。
みく子とはよくメールをする仲。
後輩にはアリエスもいるがどちらからも先輩扱いを受けていない人。
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一日目:蜜編 現在 01話

今、みく子は笑っている。

「何? 何がそんなに可笑しいの?」
「ううん、ちょっとね、あのね、思い出し笑い」

僕とみく子は並んで座り、テレビを眺めている。
テレビの中ではお笑い芸人が、最近流行の歌手と会話をしている。
それを眺めてみく子は笑ったのだ、と僕は思ったが、どうやら真相は違うらしい。
リモコンを手に取り呆気なくチャンネルを変えると、呑気なショッピング番組が流れた。
みく子は何かを思い出して笑った。


【M線上のアリア】 現在/01


みく子が突然色白になり、髪型をアバンギャルドなパーマに変えたのは数日前だった。それが原因で僕らは些細な喧嘩をした。とは言え、それは大袈裟な喧嘩になる訳でも無く、互いの言い分を主張する程度の、些細な言い争いのはずだった。みく子が何故、その明るい色の長い髪を、アバンギャルドなパーマに変えたのかは解らなかった。病的に見えるほど色白になってしまったのかも解らなかった。イメージ・チェンジと呼ぶには大胆すぎる変化だったが、その理由は解らなかった。

解らなかったから、僕は全てを受け入れる事にした。別に深淵な思慮があった訳では無い。単にそうする方が穏便に済むと思ったからだ。僕は論争が嫌いだし、喧騒が嫌いだし、面倒な事も嫌いだった。それ以上に、何かが変化する事が嫌いだった。些細な喧嘩でみく子の機嫌を損ねるよりも、穏便に済ませる事を望んだというだけの話だ。

そして、こう考えた。明るいオレンジ色の髪をして、屈託ない笑顔を見せる、元気で誰からも好かれるみく子も魅力的だけれど、今、僕の隣に座ってるみく子も、みく子だ。何ら変わらない。少し痩せたように見える、細い腕。寂しそうに笑っている。急激な変化。恐らく僕の知らない所でも、周囲の友人に色々と言われたのではないだろうか。

みく子、僕は過去に戻って欲しい訳じゃないんだ。
みく子、僕は変わらないで欲しいと願う。
大切なのは過去なんかじゃない。
維持する今なんだ。

「ね、あのね」
「何? どうしたの?」
「あのね、思い出したの、今日の昼間の出来事」

みく子は目を閉じて、何かを思い出していた。
それは数分前に読んだばかりのページを、静かにめくるような動作だった。

「大学の友達に会ったんだけど、すごく心配してくれたの」
「うん」
「謝らなくちゃダメね、心配させちゃった事」
「へぇ、男?」
「ん? さぁて、どうかしら」

みく子はテレビ画面を眺めながら、可笑しそうに笑った。
安穏と流れるショッピング番組に、別に笑えるような場面は無かった。
きっと、この笑いは、みく子が仕掛けようとしている悪戯の為の笑いだと思った。

「男なんだろ?」
「ん? なぁに? 心配?」

みく子は僕の顔を覗き込むと、まるで小悪魔のように、クスリと笑った。
以前のみく子も悪戯っぽい性格だったけれど、今、色白のみく子がそうすると、病的で豊潤な色気を含んでいるような気がして、瞬間、僕はゾクリとした。白い肌。それは剥いたばかりの林檎のような、肌だった。大きな瞳で、小さく二回、瞬きをしてから、みく子は言った。

「アタシ、その人と一緒に、ノートン教授に会いに行こうと思うの」
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一日目:蜜編 現在 02話

「アタシ、その人と一緒に、ノートン教授に会いに行こうと思うの」

そう言った瞬間のみく子の表情を、きっと僕は忘れないだろう。
それはあまりにも何気ない台詞に忍ばせてしまった病的なまでの覚悟に近く、例えばレンタル・ビデオを借りたい人間が「ビデオを借りに行こうと思うの」と言うような、能天気な発言とは程遠く、かと言って自殺志願者が「死のうと思うの」なんて言い出すような、絶望的で刹那的なヒロイズムすらも、漂ってはいなかった。

確定された未来。
もしくは、確定された未来に対する反抗。
みく子が卵白のように透き通った顔を近付けて、僕の唇を舐めた。
僕の唇を舐めた後で、その舌先をペロリと味わい、続けるように繰り返した。

「アタシ、ノートン教授に会いに行くの」


【M線上のアリア】 現在/02


「ちょっと待ってくれ、話が見えないな」

点けっ放しのテレ・ビジョンからは、呑気な音楽が流れている。
ワイドショーのショッピング番組。
新製品のアイロンを買うと、今ならもう一台、アイロンが貰えるらしい。
家庭にアイロンが二台ある必要は無く、それは心底どうでも良い情報のはずだった。
ところが、その瞬間、みく子は言った。

「アイロンが二台あるの、古いのと、新しいの。
 ……ううん、違うわね、変わらないモノと、変わりゆくモノ。
 ねぇ、蜜クン、どちらも同じモノよ、だけれどアタシ、どちらを選ぶべき?」

みく子は唇の端だけで小さく笑いながら、確かにそう言った。自嘲的と言える笑い方だった。それは「みく子らしい」笑い方では無かった。だけれど、そもそも、「みく子らしさ」とは何だ? そんなの一体、誰が決めた事なんだ?

「……話がよく解らない。
 何で、その大学の友達と、そのナントカ教授に会いに行きたいの?」

僕の問に対して、みく子の返答は普段通りのみく子の返答だった。
特に飾らず、特に焦らず、要点のみを正確に伝える為の、簡素な返答だった。

「教授なら、その答を知ってそうだからね」
「答?」
「どちらを選ぶべきか、よ」

みく子の目は笑っていなかった。
その瞬間のみく子の目を、僕は以前にも一度、何処かで見た事があった。
変わるべきか? 変わらざるべきか? そんなの僕には解らない。考える理由が解らない。

「……大学の友達って誰だい?」
「……それはね、」
「男だろ?」

言いかけた瞬間、ショッピング番組のテーマと、携帯の着信音が重なった。
みく子の携帯が、場に似合わない、軽快な音楽を鳴らしている。
それは「スーパーマリオの無敵状態のテーマ」だ。

みく子は立ち上がり携帯を手に取ると、着信の主を確認した。
通話ボタンを押して耳に当てながら「もしもし……」と言って台所に移動する。

小さな声。
うん、うん、うん。
相槌しか打たない時、大体相場は決まってる。
相手は男だ。

こんな大切な話をしている時に、男から電話がかかってくるのも如何なものか。
路上で歌っているみく子の周りには、確かに沢山の男友達がいるのは承知の上だ。
だが、今この瞬間に電話をかけてくる事は無いんじゃないかと考えると、少し苛立った。

「みく子」

背後から、わざとらしく声をかけてみる。
みく子は返事をしない。
返事をしない代わりに、みく子の目だけがコチラを向く。
僕としても返事を期待している訳ではなくて、僕の存在を知らせたいだけだ。
それが受話器の向こうの相手に伝わりさえすれば良い。
もう一度、今度は大きめに。

「みく子?」

みく子は慌てたように声を詰まらせると、無言で頷いて、電話を切った。
通話を終えた携帯画面と親指を眺めて、みく子は数秒、動かなかった。

「ほら、男だろ?」

からかうように、僕は言った。
決して嫉妬染みた言い方をした訳では無かった。
先程の会話の続きをするように、嘲笑染みた言い方をした、が正しい。
みく子が申し訳無さそうな顔をして振り向けば、それで満足だった。
ところが振り向いたみく子の反応は、まるで予想外だった。

「ねぇ、どうして? どうしてアタシの邪魔をするの?」

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一日目:蜜編 現在 03話

邪魔をする? 誰が? 僕が?
僕がみく子の邪魔をしている? 何の為に? いや、邪魔などしていない。
電話の相手は男だったんだろ? とからかっただけだ。嫉妬心は否定しないが、それだけだ。

「どうしてそんなに感情的になる必要がある?」

言った瞬間、僕は口を押さえた。
みく子の目に涙が浮かんでいたからだ。だが、一体どうして?
みく子が泣かなければならない理由なんて無かったはずで、僕が口を押さえる理由も無い。
何ひとつ無いはずだった。

「変わってしまうの、怖いの」

涙が溢れて零れ落ちるのと同時に、みく子は言った。
それはまるで謎だらけの台詞だったけれど、核心に触れた台詞だという事は解った。
何かを焦っている、みく子は。
でなければ外見的な性急すぎる変化も説明が付くはずがなかった。
そこに触れずに済むならば、それに越した事はなかったけれど、もう無理なんだろう。

「ねぇ、邪魔しないで……」

「邪魔なんてしてないよ、だけれど教えてくれ」

「変わってしまうの、怖いの、毎日そればっかり考えてるの。
 何とかしたいのよ、アタシ。だから考えたの。考えたのに、邪魔しないでよ。
 きっともうすぐ壊れてしまうの、アタシ……」


【M線上のアリア】 現在/03


水風船を破裂させたように、みく子は泣いた。
みく子の中に針を刺したように、しばらくの間、泣き喚いた。
それは確かに「みく子らしくない」行為ではあったけれど、もうどうでも良かった。

「スープ、飲む?」

僕は立ち上がると台所に向かい、インスタント・スープを手に取った。
棚から容器を一つ取り、ポットのお湯を確認すると、それを粉を入れた容器に注いだ。
ショッピング番組の呑気な笑い声が聞こえる。

「飲んで」

みく子は容器を受け取ると、真赤な目をして、それを口に運んだ。
涙でみく子の化粧が剥がれている。
病的な白。

「どういう事か、ちゃんと聞かせてくれないかな?」

言った瞬間、みく子の肩がビクリと動いた。怯えたウサギのようだった。
みく子は不器用な所作で容器を床に置くと、足下の一点を見詰めて、また止まった。
恐らく的確な言葉を探しているのに、まるで見付からないような表情だった。

「僕はさ、みく子……僕は何の邪魔をしたのかな?」

やはり小さく怯えた後で、みく子は静かに口を開いた。

「変わっていくの、アタシ。
 もう自分でも追い付けないくらいよ」

「……変わっていく?」

「特にここ数日は酷いの。
 体中の色素が漂白されていくみたい。
 目の前の色が、次第に何も無くなってしまうみたい」

「……色が無くなる?」

そこまで話すと、みく子は掌を広げた。
みく子は掌を見詰めると、また自嘲気味に笑ってみせた。

「白いのね、色が無くなると。
 汚れるのなんて厭だって思っていたけれど、汚れないのも怖いのね。
 ああ、それともこれは、戻っていくと表現した方が正しいのかもしれないわね」

「……みく子?」

「アタシ、ゆっくり壊れていくのよ、解る?
 体中が白く染まって、髪の毛も無くなって、目も見えなくなるわ。
 それから声も出せなくなって、もうじき歌も唄えなくなるわ。
 そうして最後は、私の体も無くなっちゃうのよ」

「……何それ?」

みく子は広げた掌を、僕の目の前にかざした。
そうして僕の目を塞ぐと、そのまま僕の顔を自分の胸に埋めて、抱き締めた。
数秒間、そうしていた。
閉じられた視界の中で、ショッピング番組の呑気な笑い声が聞こえた。
みく子の心音と、声も。

「……アルビノ、知ってる?」

みく子は細い糸を切った瞬間のような、小さな声で言った。
アルビノ? よく解らないが、遺伝情報が欠落して、生物の色が白くなる事、だったか。
昔、水族館で見た水棲生物が、確かそれだった気がする。
みく子の心臓が、大きく鳴るのを感じた。

「欠落した遺伝情報がアルビノなら……。
 欠落したアルビノは、一体何と呼ぶのかしらね」

みく子は言って、そのまま僕は、目を閉じた。

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一日目:蜜編 現在 04話

正直言って、もう逃げ出したい。
みく子が何を言ってるのかサッパリ解らないし、さっきからずっと胃が痛い。
世界が僕の知らないところで、勝手に動いている感覚だ。世界は僕の知らないところで勝手に冷蔵庫を開け、麦茶を飲み、玉子を二つ取り出してスクランブル・エッグを作っている。僕はと言えば傍観者にさえなれず、主人公にもなれず、成り行きを眺めながら虎視眈々と、生き延びる手段だけ見極めている。DNAを変質させながら、数多の生物が進化してきたように。


【M線上のアリア】 現在/04


一年前に『呑処 お松』のバイトを辞めてから、僕がほとんど引き篭もり同然に暮らしてきた事と同じように、世界が僕とみく子の二人だけで語られるような単純な構造なら良かったのに、と思った。ところが恐らく、きっと世界は僕の思い通りにはいかず、時計の秒針があと何回転かすれば、みく子はこの部屋を出ていくだろう。複雑に絡み合う世界に足を踏み込むだろう。この秒針と同じように、音も立てずに。

ああ、僕が今、此処でみく子を手放さない限り、みく子はこの部屋から出られない。複雑な世界に足を踏み込む必要も無く、僕が世界に取り残される事も無い。なのに、みく子は今、この部屋を出ようとしている。何の為に? 大学の友達と、ナントカ教授に会いに行く為に。変わってしまう事を恐れる、みく子自身の為に。僕には彼女を止める術など無く、言葉さえも無く、秒針だけが、ああ、もう、また一回転した。

「……欠落したアルビノ?」

みく子の胸に抱かれたまま、最初に出てきた台詞がコレなんて、あまりにも芸が無かった。だけれど真っ当な疑問であるし、このまま投げ出しておく訳にもいかなかった。みく子の胸に埋めたままの顔を上方にずらすと、僕はゆっくり彼女を見上げた。彼女は窓の外を見ていた。

「そうよ、アルビノ、欠落してしまった」

英文を直訳したような日本語で、彼女は言った。
僕は知識を掘り返した。遺伝情報が欠落し、先天的にメラニンが欠乏している遺伝子疾患。アルビノ。ところが彼女の言葉は「それさえも欠落している」という事実を表していた。欠落したアルビノ。それは既に、生物のそれでは無い。ワイドショーから呑気な笑い声が消え、イカガワシイ現役教師の性犯罪のニュースが流れている。僕は抱かれたままの体勢から、床の上に転がっているリモコンに手を伸ばし、指先だけでテレ・ビジョンの電源を消した。無音。

「……みく子、一体どういう事なのか、詳しく聞か、」
「あのね!もしもね、」

僕が意を決して発した言葉に被せるように、みく子が声を出した。僕の言葉を、わざと遮る為に発したような声だった。それとも形にならない言葉が、僕の発した声に押されて、思わず零れてしまったような性急な声だった。みく子が小さく震えているのが、よく解った。

「もしもね、もしも、もしもね……」
「……何?」
「もしもね、蜜クン、もしもアタシが人間じゃなかったら、どうする?」

冗談、では無い口調。それから今までの会話の流れにそぐわない発言。思い詰めたまま逃げ場の無くなった、彼女の表情。馬鹿にでも解る。それはそのまま、それを表している。何を表しているかは言いたくない。事実を受け入れるには、まだ早い。だって次の発言、僕はなんと言えば良い? 笑いながら「またまたぁ」とでも言えば良い?そんな訳は無い。

「みく子はみく子だ」

面白くない台詞が出てきてしまった。
みく子、僕は過去に戻って欲しい訳じゃないんだ。
みく子、僕は変わらないで欲しいって願う。
大切なのは過去なんかじゃない。
維持する今なんだ。

「アタシね、蜜クン、何者でも無いのよ」
「みく子はみく子だ」
「アタシね、蜜クン、失敗したバイオロイドなの」

嗚呼、全ては無音だ。
だけれど、みく子の心音だけは聞こえる。
彼女の中を、血管が通り抜け、血液が走り抜けている。
今だって温かな血が流れている、はずだ。

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一日目:蜜編 現在 05話

心音は風のようだ。
ある瞬間に気付く事はあるけれど、それ以外のほとんどの瞬間には気付かない。それは絶えず流れ続けて誰かのフとした仕草に(例えば彼女が前髪に触れる仕草に)反応するように、熱を持って波立つのだけれど、それ以外の時間には静かに、本当に静か過ぎるくらい静かに、只、流れる為だけに流れている。

そして流れる為だけに、流れている。


【M線上のアリア】 現在/05


みく子の鼓動は一分間に何回波打つだろう。僕は暫しの間、それだけを考えた。それ以外の事は何も考えたくなかった。考えようがない事柄を考えるのは苦痛と恐怖にしかなりえない。バイオロイド。SF的な響きだ。九割方、冗談のような単語。心音。何回目だ? 考えたくない。

部屋は静かすぎる。何か言ってくれ、みく子。いや、何も言わないでくれ。それは恐らく核心的な単語なんだろう。その単語以上に、もしも僕に真実を伝えてくれる単語があるのだとしたら、それは嘘だ。嘘だと言って欲しい。いや、それも嘘だ。心音。何回目だ? 考えたくない。

「……ビックリ、した?」

耳元に風を感じて、それがみく子の発した声だと解った。みく子は僕を抱いたまま、耳元に顔を近付けて、蝶でも捕まえる瞬間のように、柔らかな声で言った。本当はそんな声で話す余裕なんてないだろう、みく子。どうして労わる余裕があるんだ? 労わらなければならないのは僕の方だ。僕は胸に顔を埋めたまま、小さく頷いた。ビックリ、したからだ。

「アタシね、蜜クン、人間と同じなのよ。
ううん、ごめんね、人間よ。食べないとお腹は空くし、寝てないと眠たくなるし、選挙権だって持ってるし、毎週好きなドラマを見てるし、油断してたら風邪ひくし、走ったら苦しくなる」

みく子は細い糸の上を歩くように、両手でバランスを保っているように話した。僕はみく子の振動を感じながら、只、ひたすらに、その声と心音を重ねていた。みんなと同じはずのみく子。

「だからね、好きな人が困ってると、アタシも困っちゃうの」

そう言うと、みく子は小さく(本当に小さく)笑った。
笑いながら僕の髪の毛に触れて、何本かを摘まむと、その毛先で何度か円を描いた。
みく子が円を描く回数を数える。一回。二回。それから心音。三回。四回。変化する事はないのかな? 何処かで見た光景だ。横断歩道。青信号。点滅。五回。六回。七回。八回。

「赤信号になったら、どうなっちゃうんだろう」

「え?」

意味不明の台詞が、僕の口から零れた。みく子は回転する手を止めて、僕の髪を元の位置に戻した。それから数秒間、無言になった。再びみく子が口を開いた時、僕はみく子の心音を数えるのを止めていた。みく子は僕の両脇を手で抱え、僕の体を起こすと、僕の目を真っ直ぐに見て、教科書の文法を教え聞かせるように、こう言った。

「何度でも待つのよ、青信号を」

「赤信号になる度に青信号を?」

「そしてまた何度でも数えるの」

「何の為に……?」

僕が訊ねると、彼女は楽しそうに笑った。
まるで悪戯を思い付いた、小悪魔のような笑い方だった。
遠くに見えるビルの影がココまで伸びて、僕の影に覆い被さっていた。

「そうすれば、お腹が空くからよ」

みく子が自然と笑ったので、僕も笑った。笑っていると涙が零れてしまった。だけれどそれも、きっと自然な事だった。失敗したバイオロイド? よく解らないな。この部屋を出て欲しくないな、みく子。だけれどあと数回、彼女の心臓が脈を打った後、彼女は部屋を出ていくだろう。

よく解らないけれど、解った事がある。みく子は変わろうとしている。恐怖を覚える程に変わり往く自分を、覚悟を求める程に壊れ往く自分を、更に別の方向に変えようとしている。流れに逆らおうとしている。それは風だ。風を感じる瞬間だ。平坦な道に生まれた突起を殴る空気だ。欠落した血液を取り戻す行為だ。よく解らないが、そんな気がするんだ。

「蜜クン、アタシ人間? それとも機械?
アタシ、人間と同じよ、好きな人がいて、嫌いな人がいて、普通な人もいて、
好きな人に囲まれて生きていられたら良いな、なんて思って、安心して眠るの。
あのね、人間と機械を分ける、大きな違いが一つだけあるの、解る?」

その台詞を、みく子は、僕がよく知るみく子のように、快活な口調で話した。
僕は何も答えなかった。答えられなかった。首を動かす事もしなかった。みく子を見ていた。

「その、たった一つの大きな違いだけがね、アタシ、無いの」

言った瞬間、みく子は笑った。
何度も見た、あの笑い方で、わざと照れるように笑った。
わざと照れるように笑った後で、みく子の目から音も立てずに涙が零れた。

みく子は静かに泣いた。
それは数分前に、喚くように泣いたみく子の涙とは、まるで別の涙だった。
みく子が音も立てずに泣いたから、僕も音も立てずに泣いた。きっと、もうどうしようもない。
どうしようもない何かの代償として、僕等は唇付けをした。

情けないけれど、泣きながら唇付けをした。
僕らが今まで共に過ごした時間の中で、きっと、恐らく、多分、一番長い唇付けをした。
この唇を離したら、みく子は此処から居なくなるだろう。

「教授にね、会うの……どんな手段を使ってもよ。
 誰かを騙し、欺き、愛想笑いを垂れ流すとしてもよ……絶対に会うの」

唇を離した瞬間、みく子は小さく言った。
この部屋の扉を開けた瞬間から、みく子は世界に嘘を吐くだろう。
生き延びる為に演じ、生き延びる為に泣き、生き延びる為に笑い、世界に抱かれるだろう。

「じゃ、行くわね」

最期にそう言って、みく子は扉を開け、僕の部屋を出た。
僕は目を閉じて、今、この瞬間から、青信号を待ち続ける事にした。
扉が閉まる瞬間、本当に最期の瞬間、みく子の(白いコスモスのような)指先が見えた。

それが僕が見た、最期のみく子の色だった。

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一日目:蜜編 現在 06話

部屋の電気を消す。
みく子がいなくなった部屋は静かだ。そして広い。
リモコンを手に取り、テレ・ビジョンの電源を点すと、下品な笑い声。

何が真実なのかなんて知りたくもないし、知る事さえ出来ないんだと思う。
みく子がいなくなった部屋で最初に考えたのは、これから何をするべきかという宛の無い感傷だった。みく子はいない。恐らくもう帰って来ない。部屋の隅に、みく子が好んで座っていた、オレンジ色の小さなソファがある。みく子が買ったソファだ。そこはみく子の特等席だった。僕はそこを見ないようにした。みく子がいない事を改めて確認させられるようで厭だったから。

ベッドに寝転んで、天井を見上げてみる。僕は何をしている? みく子がいなくなったのに。何にもしていない。みく子がいなくなった事実に対して、「みく子がいなくなったな」と、感傷的なナルシズムに耽っているだけだ。まだ一日も経っていない。何から数えて? 解らない。

寝返りを打とうとすると、オレンジ色のソファが目に映った。僕は顔を背ける。すると壁に貼られたポスターが見えた。外国のバンドのボーカリストが座っている、何の変哲も無いポスターだ、みく子が貼ったポスターで無ければ。僕は目を閉じた。すると何処からか、みく子の香りがした。香水ではない。石鹸の香りか。薄目を開けると、視点の定まらない枕元に、一本の糸。長い糸。窓辺の月明かりを浴びて金色に見える。たった一本。みく子の髪の毛だった。

まだオレンジ色の長髪だった頃の、みく子の髪の毛。
僕はそれを摘み上げると、唇に当てた。何だ、この部屋は、みく子だらけじゃないか。
そう思うと、また泣けてきた。
テレ・ビジョンの中で、名も知らぬタレント達が、また下品に笑った。


【M線上のアリア】 現在/06


僕に何が出来るかなんて解らない。きっと何も出来ない。
特に一年前にアルバイト先の居酒屋を辞めてからの僕は、まるで駄目だ。
この部屋から出る事も億劫だ。それでもみく子と一緒にいれば、週に何度か外に出て行く事もあったのだけれど、これから先の自分を想像すると、自分を嘲笑したい気分になる。一生、この部屋から出ようともせず、死んでしまうのではなかろうか。みく子を助ける事も出来ず、世界に影響を与える事も出来ず、餓死か? 餓死くらいが相応なのではなかろうか、そのうち僕は死ぬんだろうな。この虚無的な感傷に浸ったまま。何で此処にいるんだ?

何で此処にいるんだろう。良いのか、みく子を追わなくて。先程から台所の蛇口がポタポタと水滴を漏らしているのがウルサイ。止めるのも億劫だ。とにかく僕は動きたくないのだよ。誰とも関わりたくない。誰かと関わる事で、面倒な事情に巻き込まれたくない。傷付きたくない。

蛇口の水滴を止めにいく時に、もしかしたら水道管が破裂して怪我をするかもしれない。ならばこのままの方が良い。馬鹿らしい。数秒前まで、このまま餓死する事を夢想していた自分が、水道管の破裂に怯えているなんてな。馬鹿らしい。なぁ、みく子、何処へ行ったんだ?

変えたいな、みく子、世界を変えてしまえば、君は笑えるだろうか。
何にも出来なかったな。情けない。一緒に泣いただけだ。いや、僕が先に泣いた。
何にも出来なかったな。何にも出来ないのかな。本当に何にも出来ないのか、僕は?
くだらない命だ、僕の命なんて。誰の為にもなりはしない。ああ、変えたいんだ、世界を。


「相変わらず、虫の良い話だな」


突然、声が聞こえた。
僕は慌てて部屋を見渡す。男の声だ。誰だ?
みく子が部屋を出て行ってから、誰かが入ってきた記憶は無い。

「自分じゃ何も出来ないくせに、世界を変えたがっているんだろ」

暗闇の中で、男は笑って、そう言った。
僕は体を起こすと、異常に高鳴る心音を抑えるように「誰だ!」と叫んだ。
男は低い声で六四分音符を刻むように笑い、僕の叫びを吸い込むように「慌てるな」と言った。

「俺は、お前のような人間の元に現れる。
誰とも関係を築こうとせず、己の殻を破る事もせず、何の手段も持たず、
そのくせ世界を変えたいと思っているような、お前のような傲慢な人間の元にな」

暗闇の中で、男が何処にいるのかを、僕は見た。
部屋の隅。みく子の場所。彼女の特等席。そこに男はいた。
男はオレンジ色のソファに腰掛け、手と足を組んで、僕を眺めていた。

「こんばんは、羊。俺は悪魔だよ。お前を食いに来た」

蛇口の水滴が、またポタリと落ちた。
だけれどその小さな音は、僕の耳には届かなかった。

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一日目:蜜編 現在 07話

悪魔は含むように笑っていた。
悪魔はオレンジ色のソファに座りながら、中指でサングラスの位置を直した。暗闇でサングラスをかける意味も解らないが、立派なレザー・ジャケットを着ている意味も解らない。悪魔? どう考えても単なる不法侵入者ではないだろうか。あとは変質者か何か。そうでなければ立派なレザージャケットを着ている癖に、下半身は全裸でいる意味が解らない。

目の前に座る人間を悪魔だと認識する為に必要な手段は、世の中に何個あると思う?実は一個も無い。それが悪魔だと実証する術など一個もない。でなければ中世ヨーロッパでの魔女裁判など、幾分かマシな結末になっていたはずだ。悪魔と人間を見分ける方法など無い。

「……悪魔?」
「イエス、お前達が求める限り、俺はその名で呼ばれるのさ」
「……悪魔、お前が本当に悪魔なら、ズボンくらいは履いたらどうだ」
「おっと、これは失敬、このジャケットに相応しいズボンの記憶が無かったのものでね」

悪魔は確信犯のように小刻みに笑うと、一瞬目を閉じて(と言ってもサングラスの下の目は暗闇では見えなかったが)、指を鳴らすと何事も無かったかのように立ち上がった。恐らく、僕が瞬きをした、ほんの半瞬。悪魔の下半身には、三本ラインのジャージが身に付けられていた。ドンキホーテで五百円くらいで売っているような、ピンクのジャージだ。

「これで不満は無いかね?」


【M線上のアリア】 現在/07


「いや……うん……まぁ」

不満が無いとか、そういう問題ではなくて、CG映画か手品でも見ているような気分だったし、そもそも目の前の男が何を目的にしているのか、解らない。いきなり悪魔ですと名乗られて「はい、そうですか」と思える訳が無い。だけれど目の前で一瞬にして三本線のジャージを出されたら、もしかしたら悪魔なのかもしれないなぁとも思えるし、もしかしたら腕の立つ変質者のマジシャンなのかもしれないなぁとも思える。どちらにせよ胡散臭い存在には変わり無い。

「僕を食いに来た、と言ったな」
「イエス、正確に言うと、お前の記憶を食いに来た」
「記憶を食う? どういう意味だ? アンタは僕を殺しに来たのか?」
「とんでもない。 真っ先に家畜を殺す馬鹿が何処にいる。 飼育しに来たのさ」

飼育? 見下すような言葉に一瞬、腹が立ったが、非常に悪魔らしい発言だ。悪魔的に正しい発言だと言える。もしかしたら本物なのかもしれない。悪魔が実在する、しない、という論点は、今は問題では無い。重要なのは、今、悪魔と思わしき人物が目の前にいて、僕に何かをしようとしている点であるし、それに対して僕はどう対処すべきか、という点である。
悪魔は立ち上がったまま、腕組みをして、僕を見下ろしている。

「……襲い掛るような真似はしないんだな」

悪魔は声を出さずに呼吸だけで笑い「悪魔はそんな真似はしない」と言った。数歩、歩み寄ると、僕の顔面に手を伸ばす。人間の手とまるで同じだ。爪が少しだけ伸びているような気はするが、特異な部分はない。悪魔は人差し指を立て、それを僕の額に当てると、こう言った。

「契約を結ぶんだよ。それで始めて、俺はお前の記憶を食える」
「……契約?」
「悪魔は紳士だ。俺達は記憶を食う代わりに、お前達に報酬を与える」
「……報酬?」
「記憶の味に応じて、お前の望みを何でも叶えてやるよ」

なるほど。
フランス料理にはフランス料理としての価格が、マックス・ドックスにはマックス・ドックスとしての価格があるように、悪魔にとっては、記憶にもそれ相応の価格がある、という意味か。記憶を食う?
「一気に食う訳ではないのか」と僕は言った。

「一気に食う訳が無いだろう。お前が死んでしまう。先程も言ったが、これは飼育だ。
お前は生き続けて、新たな記憶を増やし、俺に記憶を提供し続けて貰わなければ困る。
それが契約だ。解るかね、羊?」

「よく解ったよ」と言う寸前に、僕は笑った。
なるほど、紳士ぶってはいるが、何と都合の良い契約だ。この男は間違いなく悪魔だ。
生かさず、殺さず、飼い続け、最後には残さず食ってしまうんだろう、悪魔よ。それもいい。
僕は改めて笑い始めると「よく解った、記憶を食ってくれ」と言った。

「随分、物分りが良いな」

人差し指を額に当てたまま、悪魔が言った。
そうだな、このまま餓死していくのも良いけれど、記憶を食われて生き延びるのも良い。
世界を変えたいのだよ、みく子。君が笑える世界はどんな世界だ? 世界を変えてやる。

「まずは何を望む? 俺はそれに相応しい記憶を食ってやる」

どんなにグルメ家ぶってる貴婦人だって、肉を食う瞬間は、醜い欲を満たそうとしている。下品な欲を剥き出しにした表情をしている。悪魔だって同じだ。悪魔は、(まるで頭部をメスで切開したように)人差し指を動かすと、僕の脳みそを掻き分けた。そしてまた小刻みに笑った。

「ククククク……お前もか」

お前もか?
どういう意味か解らないが、悪魔は食料を探している。
そして我慢するように「早く望みを言え、もう待ちきれん」と呟いた。

「そうだな、まず……」

悪魔が記憶を食う瞬間を、僕は見なかった。
見てしまったら、これから先、記憶を食われる度に、思い出してしまいそうだったから。

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一日目:蜜編 過去 01話

その日、僕はまだ十九歳だった。

空はオレンジ色に染まり始めていた。僕はアルバイト先の居酒屋『呑み処 お松』の買出しの為に、次第に人が増え始めた夕暮れ時の街を、一人で歩いていた。玉子、片栗粉、納豆、小麦粉、醤油、メリケン粉……。「粉ばっかりだな」。メモ帳の内容を確認しながら、一人でブツブツ呟いていると、不意に赤信号に出くわした。街の中心部にしては割と小さな車道で、僕の近くに赤信号を待っている人はいなかった。

相対した向こう側には、女の子が一人。
オレンジ色の髪をした細身の女の子が一人、立っている。
少しだけ上を見上げて(恐らくは歩道信号を見ているのだろう)立っている。
両手で大きな何かを抱えている。それがギター・ケースだという事は、すぐに解った。


【M線上のアリア】過去/01


車道の信号が青色から黄色に変わって、すぐに赤色に変わった。
それに呼応するように、教師の設問に答える生徒のように、歩道信号は青色に変わった。
僕はメモ帳をポケットに入れると、歩道を渡り始めた。

ところが対面に立っていた女の子は、その場を動かない。
先程までと同じ姿勢のまま、少しだけ上を見るように、歩道信号を眺めている。
僕が彼女の横を通り過ぎる瞬間も、彼女の視点は、そこから動かないままだった。
まぁ、それほど不思議な光景でもない。
よく見かける光景とは言わないが、少し変わった人間など、世の中には沢山いる。

チカ、チカ、チカ。
青信号が何度か点滅して、それは赤信号に変化した。

彼女を少し変わった人間ではなく、だいぶ変わった人間だと思ったのは、その二十分後だ。
買出しを終え巨大なダンボールを抱えて歩く僕は、二十分前と同じ場所で、彼女を発見した。
彼女はやはり二十分前と同じように、対面の歩道信号を眺めたまま、微塵も動かなかった。
どうでもいいがダンボールが重い。中にはビニール袋にして五枚分の荷物が入っている。
そのほとんどが、粉だ。だから重い。

歩道が赤になったので、僕と彼女は、並んで立つ事になった。
ダンボールが重いので、僕は思わず、それを路上のアスファルトの上に置いた。
ふぅ……と息を吐き出し、両手首をブルブルと振り、一人マッサージ染みた事をしながら、
隣に立っている彼女の事を考えていると、何となく言葉が出てしまった。

「……あの、さっきから何してるんですか?」

「え?」と、まるで不意に撫でられたペルシャ猫のような声を出して、
彼女は首を動かすと、僕を見た。何だ、普通に人間らしい反応も出来るんじゃないか。

「あ、いや、さっきココを通った時にも、ココに立ってたから」

「ああ、そういう意味かぁ」と言って小さく笑った声は、
撫でられた手を舐めるペルシャ猫のようで、そもそもペルシャ猫がどんな声か知らないが、
まぁ、大体、彼女の声がそんな感じのペルシャ猫的な声だった、という事が伝わればいい。
とにかくそこから先の彼女は、冗舌だった。

「お腹すいちゃってさ」
「は? お腹?」
「昨日から何にも食べてないの」
「え? 何で?」

彼女は空腹に酸素を詰め込むように、大きく息を吸い込むと言った。

「財布、落としたから!
 もう考えられないと思わない? いくら入ってたと思ってるのか!
 とにかくアタシ、これから歌わないといけないの、でも元気が出なくってさぁ……」

彼女はギター・ケースを見せながら「歌えるかなぁ」と笑った。

「歌? 何処で?」
「路上で。お金ないからね、少し稼ごうかと思って」
「へぇ、なるほど、そりゃあスゴイ、君は歌を唄ってる人なのか」

彼女は「へへっ」と漫画的に、照れるように笑った。
彼女の切り揃えられたオレンジ色の前髪が、夕陽を浴びている。
小さな風に揺れたそれは、まるで小麦畑のように、金色に輝いていた。

「だけどね、でもね。
 お腹が空いてたというのはよく解ったんだけど、
 キミがずっとココに立っていた理由が、イマイチ解らないんだけど」

すると彼女はギター・ケースから片方の手を離し、それで何かを指差した。
歩道信号だった。その時、歩道信号は丁度、青色だった。
だけれど僕は、まだ渡りたくなかった。

「信号?」
「そう、信号」
「何でずっと信号を?」

チカ、チカ、チカ。
青信号が何度か点滅して、それは赤信号に変化した。

「青信号が点滅するのは何回なのか、ずっと数えてたの」
「うん」
「何回数えても、ずっと同じ回数なんだよ、ずっと変わらないの」
「うん」
「もしかしたら一回くらい、どこかで変わるんじゃないかなって思って、見てたの」
「何の為に……?」

僕が訊ねると、彼女は楽しそうに笑った。
まるで悪戯を思い付いた、小悪魔のような笑い方だった。
遠くに見えるビルの影がココまで伸びて、僕の影に覆い被さっていた。

「お腹が空いていたからよ」

彼女はそう言って、僕の目を見たんだ。

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一日目:蜜編 過去 02話

お腹を空かせた彼女を、僕はバイト先に連れて行く事にした。
安く食べさせてあげられると思ったからだけれど、考えてみるに彼女は無一文で、
仕方が無いから、奢ってあげる事にした。
僕は腹を空かせたペルシャ猫を放っておける性分ではないんだ。

「奢ってあげる、その代わり条件が二つある」
「なぁに?」
「名前を教えて。それから、歌を聴かせてよ」

「そうねぇ……」と考え込む仕草をして、彼女は笑った。
答は出ているのにわざと悩んだ仕草をしている、といった仕草だった。
赤信号が青色に代わり、僕らは並んで歩き始めた。
横断歩道の途中で、彼女は言った。

「みく子よ。それから歌は、お安い御用」


【M線上のアリア】過去/02


その時のみく子の食欲と言ったら。
もう目も当てられない。その日の稼ぎが全部飛んでいくかと思った。
いや、飛んでいった。お前どんだけ食うねん、と関西弁でツッコみたくなった。

ジャッキー・チェンの初期の映画に出てくる食堂でのジャッキーのように、みく子は食べた。
しかもその全ての皿を、美味そうに完食する。奢り甲斐があるというものだ。
まぁ、居酒屋の料理だから一品の量は(盛り皿でない限り)意外と少なかったりするし、
油モノは食べずに、あっさりとした料理を選んでいたから、食べ切れないという事はない。

それにしたって女の子にしては、食べすぎだ。
あの細い体の一体何処に、あれだけの量のもずくが吸収されているのだろう。
そして、あれは一体何杯目のもずくなのだろう。
僕は厨房の隅から、みく子が座る席を眺め、一人で感心していた。

「コラ、何ぼぅっと突っ立ってんの!」

突然、背後からの声と同時に、後頭部に鈍痛。
思わず「痛っ」と声を出すと、続けて笑い声が聞こえた。

「まだ忙しい時間帯じゃないから良いけど、何やってんの?」
「何だ、エリカか」
「何だ、エリカか、じゃないよ」

エリカは手に持っていたトレイをくるりと一回転させると、頬を膨らませた。
エリカは僕の幼馴染で、あろう事か今は同じ居酒屋でバイトをしている。
最近、好きな男が出来たとかで、割とテンション高めの日常を送っている。
まぁ、エリカの場合、常に恋多き女だけれど、今回はどうなる事か。

「別に、何もしてないよ」

横断歩道で見付けた女の子を連れてきて飯を食わせている、などと言ったら、
また面倒な詮索をされるのがオチなので、話を適当にごまかして、僕はフロアに出た。
周りの連中はエリカを可愛いなんて言ってるけれど、僕からしたら単なるお節介な女だ。

「飯、食った?」

僕はみく子の席に近付くと、皿を下げるフリをして、さりげなく聞いた。
みく子は満面の笑みで「食った!二日ぶり!満腹!」と言った。

「声が大きい!」
「あ、ごめん、満腹だったもので」
「じゃあ、二つ目の条件、歌を聴かせてよ」
「いいわよ、じゃあ仕事が終わったら、一緒に行きましょ」

みく子が当然のように言うので、僕は言葉を重ねた。

「何処に」
「路上に」

路上に行く、という表現も変だけれど、それは確かに正論で、
僕の仕事が終わるまで、みく子は席に座り続け、仕事が終わる十分前に店を出た。
もちろん、お金は先に、僕が払っておいた。

「蜜、今日A番? もう帰っちゃう?」

タイムカードを押して着替えようとしている僕に、エリカが声をかけた。
エリカと時間が合う時は、一緒に帰るようにしている。まぁ、家が近いから。
だけれどこの時の僕は、これから路上に歌を聴きにいかなければならない僕だったので、
当たり前のように「うん、今日はもう帰っちゃう」と答えた。

「エリカ、B番?」
「うん、まだ四時間も残ってる」
「まぁ、今日はあまり忙しくないし、頑張れよ」

この時、エリカは何かを悩んでいたのだろうけれど、何を悩んでいたのかは解らない。
エリカの事だから大半の悩みは恋に関する事で、好きな男の事で悩んでいたのだろう。
それとも、もっと深刻な……? いいや、それは無い。

店を出ると、息を吐き出した。
息を吐き出すと、それはわずかに白く煙っていた。
少しだけ寒気を伴った空気は、セロファン性の夜空を演出している。

「星、見えないね」

不意に、隣から声がした。
みく子だった。
みく子は星の無い星空を見上げながら、
……ああ、そうか。
まるで信号機を見上げるように星空を見上げながら、
僕の袖を掴んで、こう言ったんだ。

「じゃ、唄いにいこうか?」

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一日目:蜜編 過去 03話

詩人が口を動かして声を発すれば、詩が生まれ、
お笑い芸人が口を動かして声を発すれば、漫才が生まれるように、
歌を唄うべき人が口を動かして声を発すれば、そこには音楽が生まれるんだ。

世の中、そんなに単純なモノじゃないかもしれないけれど、
事実、実際、みく子の歌は、そういう歌だった。
それは彼女の髪の色と同じように明るく、周りを優しく包み込むように、響いていた。


【M線上のアリア】過去/03


寂れた飲み屋通りの路地が、みく子の場所だった。
誰もが「どうしてこんな場所で?」と思うような場所かもしれない。
何せアスファルトは汚れて、何でか知らんけど常に濡れてるような状態だし、
同じく何だか知らんけど、何故か常に週刊プレイボーイが捨てられているような場所だった。

「そういう場所にこそ、歌って必要だと思わない?」

これは唄い終えた後に、マックス・ドックスでみく子が言った台詞。
窓際の席からはM字型のブサイクなダックスフントが描かれた看板照明が見える。
みく子はフィッシュ・バーガーを(もちろん僕の奢りで)三個食べ、
ポテトとシェイクを(もちろん僕の奢りで)胃の中に入れると、満足そうに言った。

「だから歌って素敵なのよねぇ」

「まぁ、確かに素敵だった」と、僕は言った。
みく子の歌は確かに素敵で、しかも一定のファンがいるようだった。
寂れた飲み屋通りの路地のくせに、そこには十数人が集まり、みく子と共に唄っていた。
オッサンから若い子まで、みく子を囲んで一緒に歌っていた。

「何時も同じ場所?」
「そうよ、何時も同じ場所、じゃないと困るじゃん」
「誰が?」
「歌を楽しみに待っていてくれる人が、困るじゃん」

みく子は、多分、今夜、数千円を稼いだ。
ギター・ケースの中に千円札が数枚見えたから、間違いない。
確かにみく子は、あの横断歩道で「お金ないからね、少し稼ごうかと思って」と言った。

ところがみく子が、そのお金を何に使ったのかと言うと、
コンビニで食べ物を色々買い込んで、それを全て野良猫に与えたんだ。
一匹や二匹じゃない、もっと沢山の野良猫が集まる場所があって、そこに餌を置いた。

「財布落としちゃってから二日間、餌あげてなかったからね」

みく子は笑って、野良猫の中の一匹を撫でた。
なるほど確かにみく子は「少し稼ぐ」とは言ったけど、何に使うか言わなかった。
二日間、腹を空かせて考えていた事が「野良猫の為に金を稼ぐ」だなんて馬鹿げてる。
馬鹿げてはいるけれど。

「みく子、マックス行こうか」

……という経緯で、話は戻る。
それで僕達はマックス・ドックスにいる、という訳だ。
金を稼いだみく子が、僕の奢りでフィッシュ・バーガーを三個も食ったのも、
そのような理由による。

みく子は三個目のフィッシュ・バーガーを美味そうに平らげ、
シェイクをゾゾゾと音を立てながら吸い込むと、満足そうに息を吐き出して、
要するに、こう言ったんだ。

「そういう場所にこそ、歌って必要だと思わない?」

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