ロシュ編
蜜編
サク編
蓮火編
アリエス編
黒編
しのめん編
奏湖編
ちこ編
志津編
タイキ編
ゆん編
なつめ編
卵茶編
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
■ロシュ
みく子の元カレ。
二枚目、頭脳明晰、スポーツ万能で浮気者。
みく子と別れてエリカと付き合いながらも、みく子に未練がある人。
■蜜
みく子の現彼氏。
みく子のアバンギャルドなパーマを見て怒った。
世界を救いたいと思ってる人。
■サク
みく子の初恋の人。
みく子のことだけを考えながらも、人生に絶望してる。
悪魔と契約なんかしちゃってる人。
■蓮火
みく子の知り合い。
路上ライブで知り合い、アバンギャルドなパーマを見て
「とりあえず、そのパーマだけは直せよ!」と路上で叫ぶ人。
■アリエス
みく子と同じ研究室の学生。
先輩には卵茶もいる。
教授にいろんな意味で愛されてる人。
■黒
みく子のチャット友達。
るどんとビリヤードしたりもする。
みく子と実際に会ったことはない人。
■しのめん
みく子の友達。
どう見ても二児以上の父親としか思えない老けた大学生。
色の識別が出来ない人。
■奏湖
みく子の元後輩。
大通りにある24時間営業のマックス・ドックスの元気な店員さん。
みく子のライブポスターをそこら中に貼りつけた人。
■ちこ
みく子のストリート友達。
みく子と同じようにストリートで歌ってる。
昼は喫茶店、夜はダイニングバーじゅごんで働いている人。
■志津
みく子の友達。
「ふろーら・しょうだ」でバイトしてる。
落研で「るど」と漫才コンビを組んでる人。
■タイキ
蓮火の兄。
タクシードライバーをしている。
弟の蓮火のことをいつも考えてる人。
■ゆん
みく子の友達。
普段はたまにメールでやりとりしてる。
みく子のライブのポスターを作った人。
■なつめ
みく子の高校の同級生。
高校時代はみく子の生演奏を聴いたりしてた。
現在は立派に社会人をしている人。
■卵茶
みく子のゼミの先輩。
みく子とはよくメールをする仲。
後輩にはアリエスもいるがどちらからも先輩扱いを受けていない人。
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一日目:サク編 01話

 秋に入り始めの寂しさは、単純な人恋しさとは違うと思う。
 そんな生々しいものではなくて、もっと乾いていると僕は思う。
 大切な人に会いたくなる、とかそういうことじゃない。言ってしまえば、誰かと一緒にいても寂しい。そういう季節だ。冷たくなった空気に脅かされて、周りの広さに気づく。そして足りないものを探してしまう時期。これは自分に足りない対象が見つからない寂しさなのだ。寂しさに汚染されると言えば、僕にはしっくりとくる。
 目の前に本を開きながら、何も集中出来ていない今の僕には。
 大学の図書室の窓はどこの馬鹿が空けたのか全開で、でも夏の残り香のする午後の風が割合暖かくてあえて誰も閉めないままで、机の上に本を載せて授業で必要なものを調べてる僕には、ペラペラ舞おうとする小難しい本のページが邪魔だった。
 僕は気づいていた。
 長方形の大きな板をそのまま浮かせただけのような大きな机には、六つの椅子が行儀よく並んでいて、僕の対角線上に嫌に肌の白い女の子が座っていた。
その女の子は白く華奢な手と全く似合わない、人を殺せるような黒い分厚い本のページを重そうにめくっている。
 僕は気づいていた。
 彼女のせいで、全く自分の本に集中出来ていないことに。
 風が吹いた。
 彼女の何だかなぜか癖が残っている髪を横に流す。
 そして僕は信じられない気持ちで、小さく呟いてしまう。
「みっこ……?」
 彼女がこちらを見た。
 目をまんまるに見開く。
 その雰囲気は全然違うけど、まだ面影が残っている。
 間違いなくみっこだった。
「サクちゃん……?」
 みっこは中学生の時の同級生で、クラスが同じだった。
 同じ班になって、その班で修学旅行に行った。
 仲が良かった。
 僕は彼女を忘れていないくらい仲が良かった。だけど、ただ仲が良かっただけだった。そして彼女は別の高校に行った。僕より頭のいい高校だった。僕には到底行けないような高校だった。だからそこで僕と彼女は別れてしまった。でも、僕は忘れていなかった。風の噂で彼女が同じ大学に入ったと聞いた。時折構内ですれ違うことはある。でも僕はただ見ているだけ。何を今更、という感情が僕の中に渦巻くのだ。僕は確かにみっこを忘れてなんていない。でも、何を今更、だ。みっこは僕をきっと、忘れているのだ。だから今まで声をかけたことがなかった。
 しかし今ここで声をかけてしまったのは、もっと単純に驚いてしまったのだ。みっこは昔から、中学の頃から、微かにオレンジがかかった髪が似合う、優しくて笑顔の似合う女の子だった。でも、今のみっこには以前の血色が良さそうで利発そうな雰囲気なんて欠片もなくて、逆に、肌が薄ら白くて病人のような雰囲気を湛えている。それがまた窓からの秋の陽を浴びて、きらきらと光っているようだった。窓辺に置かれた繊細なガラス細工を思わせた。触れてしまえば折れてしまう気がするほどの。イメージチェンジだろうか。でも、その域を超えてしまっているように思う。
 この前大学内で見かけた時は、以前のままのみっこだったのに。
 この短期間で何があったのだろう。僕には分からない。僕とみっこの間には、今は遠い距離があるから。みっこがイメージチェンジをする理由なんて知りえるはずがない。僕が知っているみっこは、中学までなのだから。この言葉を交わさなかった間に、みっこに何があったのか、僕は知ることが出来ない。
 僕は思わず立ち上がって、みっこの側まで歩いていった。
「久しぶり」僕はとりあえず、それを言った。
「久しぶり」みっこもにっこりと笑ってくれる。
「みっこ……だよね?」
「ふふ、うん、そうよ。やっぱり雰囲気違う? みんなに言われるの」
「そんな、声まで変わって……」
「やーね、それは気のせいよ。何年ぶり?」
 そこまで言って、僕らはお互いに「あ」と気まずそうに俯いた。
 気づいてしまったのだ。
「……大学で会うのは初めてね」
「やっぱり知ってたんだ。同じ大学だって」
「あ……、うん、ごめんね」
 みっこには今、彼氏がいる。
 僕はその事実を知っていた。
「いや、何で謝るの。本当、久しぶりだね。雰囲気も凄い変わった、大人っぽくなったよ。それに、昔は本なんて読んだっけ? 何読んでるの?」
 僕が覗き込むと、みっこは軽く笑いながら静かに本を閉じた。閉じる前に、ページの中で見えた小さな見出しの言葉は「アルビノ」。閉じた本の表紙には「一般動物に見られる遺伝的病症」と書かれていた。
「……難しいの、読むようになったんだね」
「ん、ううん、大学の論文のためなのよ」
 どこかぎこちなく、みっこは言った。
 その顔があまりにも遠くて、僕は言葉を失う。
 しばらく、みっこも話さなかった。
 みっこの肌を風が通う。
 白い肌の上に粒子が踊ってるような気がした。
 腕が細くて、白く、冷たそうだった。
「あのね、サクちゃん。アルビノって……知ってる?」
「アルビノ?」
 どこかで聞いたことある。先ほどの本に書かれていた言葉。一般動物に見られる遺伝的病症。僕の貧困な脳はなぜか動物園や水族館を思い浮かべて、そしてそれは運よく正解を気づかせてくれた。「一般動物に見られる遺伝的病症」アルビノ。遺伝的な性質だ。
「ああ、あの、生まれつき白い動物のことでしょ?」
「そう、遺伝がどこか違って、メラニンを作れないんだって」
「へぇ、美白ってことなんだ」
 僕は笑った方がいいと思って笑った。
 みっこの顔が妙に悲しげだったから。
「そうね」と言いながら、みっこはなぜか儚く微笑む。
 その笑顔にハッとした。
 僕はもっと早くみっこに再会すべきだった気がした。もっと早く、もっと早く出会っていれば。あの頃の明るく元気なみっこと別れなければ。こんな笑顔を見ないで済んだだろうか。僕は何かを留めることが出来ただろうか。あるいは、取り戻せたというのだろうか。僕はどうしたと言うのだろう。何もかもが変わっていくのだ。
 僕らの間には、今、遠い距離がある。
 嘆いても叫んでも、埋められないほどの距離。
 僕が知っているみっこは、どこかへ行ってしまった。
 みっこは、変わっていくことを望んだのか?
 漂白されたような白い横顔。
「みっこ……、そのアルビノって、どんなの? 僕、水族館でしか見たことなくて」
「うん、色々大変みたい。視力が弱いとか、紫外線に弱いとか」
「生まれつき?」
「うん、そうみたい」
「……そう」
 みっこがふいっと横を向いて、時計を見た。
 そしてこちらを振り返ることなく立ち上がった。
「ごめんね、もう行かなきゃ。また……」
「うん……。あ、その本、重いだろ。僕、片付けとくよ」
「本当に? ありがとう」
 みっこはずっとこちらを見ない。
 僕はその背中を、ずっと見ていた。
 ずっと見れなかった、背中。
 触れたいと幾度となく願った小さな背中。
 その背中が震えてる。
 彼女が歩いていく。
「サクちゃん、あのね」
「何?」
「いけないことだったのかな。変わってくっていけないことだったのかな? 私、怖いの。何だか怖くて、そんなの見てた。遺伝って、変わらないイメージあるじゃない? ずっと大切に伝わってく。そんなイメージ。でもアルビノって見つけて……。ああ、いきなり変わっちゃうんだなぁって。何だか白すぎるってよく言われて、そんなの見てた。私、自分がどうなっていくのか、怖いの」
 そう言って、みっこは背中を震わす。
「何か、あったの?」
「ううん、別に何もないわ。ただ、急に不安になっちゃって。サクちゃん見たら、何だか、色々思い出しちゃって。高校と今までの大学で私、変わっちゃったでしょ? もしサクちゃんと一緒の高校に行ってたら、結局同じ大学に来たかもしれないけど、変わらずいられたのかなぁって」
 みっこはポケットからハンカチを出して、顔に持っていった。
 表情は見えない。ずっと振り返らないままだった。
 まるでもう僕を見たくないかのように。
 そのままみっこが歩いて廊下に出たのを、ただ僕は眺めていた。
「みっこ……」
「お願い、来ないで。お願い……。お化粧、剥がれちゃってるの」
 瞬間――
 僕は図書室の扉に向かって走った。
 ドアをつかむ。
 なぜか、そこから先は走れなかった。
 例えそこから走っても、みっこには決して追いついてはいけない気がした。
「みっこ! それでも僕はまたみっこと会えて、嬉しかった!」
 みっこは廊下を駆け出した。
 ハンカチがモルタルの床へ花びらのように落ちた。
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三日目:サク編 02話

 一を無限大で割ると零になる。
 中学の数学の授業で趣味の悪いネクタイを首に巻いた先生が、何やらそんなことを言っていたのを思い出す。僕がその先生の事を思いだせるのは、そのネクタイとその言葉だけ。もう名字すら思い出せない。もう会うこともないんだろう。つまりその先生が僕の人生に影響を与えたのはその二点だけだった。ネクタイはしっかり選べ、ということと、一を無限大で割ると零になる。その二つ。
 一を二で割ると〇・五。四で割れば〇・二五。五で割れば〇・二。十で割れば〇・一。百で割れば〇・〇一。千で割れば〇・〇〇一。そして無限大で割ると限りなく零に近づく。だからそれはもう零として考えていいのだ、と言った。
 僕はそのことについて、今でも思い出すくらい納得がいかない。なぜならそれは零に近づくにせよ、零ではないからだ。その数字はまるで飛行機が着陸するように、限りなく零に近づく。だけど決して着地は出来ないのだ。その数字と零は、決して触れ合って解け合って分け合うことはない。誰よりも近くにいるのに、誰よりも絶対的に遠い距離。手を伸ばそうとする。だけど、すぐそこなのに、もしかすると自分の手の長さより短いくらいなのに、どうしても絶対に届かない距離。
 それが、中学生の僕とみっこの隣同士の机の距離感だった。
 サクちゃん。
 まだみっこの声が耳に残っている。確実に尾を引いている自分に嫌気が差して、また布団の上に転がった。ちなみ現在時刻は十二時半過ぎで、午後一番の講義にはもう間に合いそうもない。流通科学の講義だった。僕は履修の関係でこの曜日のこの時間にしか取れなかったが、廊下をスタスタ歩きながら教室を見ている限り、他の曜日の他の時間にもあるようだった。その講義の先生である、紳士な教授を高い頻度で見かけるからだ。だが、僕には流通科学の講義が何も頭に入っていない。流通を科学する。それしか分からないが、それからして分からない。そもそもなぜ自分がその授業を取っているのかと言えば、まだ大学の特色すら分かっていないのだ。この大学の情報は諸説紛々で、所詮僕などでは到底その深奥を知ることが出来そうにない。たぶん、流通科学の講義しか知らない。あとノートン先生と会えるらしい。それぐらいだ。この大学の生徒がノートン先生をどうしてそんな身近な存在に感じられているのか、ちょっと僕には分からない。そもそもこの大学にはどんな学科があるのか、そして自分が何学科に属しているのかも分からなかった。思わず「大学辞めよう。もう胃が痛い」と弱気になってしまう。
 サクちゃん。
 みっこ。中学生の頃の同級生だったみっこ。元気で誰からも好かれオレンジ色の髪がトレードマークだった。弾けるような笑い、時折見せる悪戯っぽい笑み。神様が世界に綺麗なものを散りばめたとしたら、その一つにみっこの笑顔は数えられるだろう。日本の経済状況だって動かしかねないと僕は思う。
 だが、そのみっこはお世辞にも変わってないとは言えなかった。少なくとも外見は。
 やっぱり、話すべきではなかったのかもしれない。
 あの唐突な変化は何だろう。あの時の影響だろうか。いや、それはないだろうと思う。あの時のことを覚えているのは僕だけだろうから。みっこ自身、何も覚えていない。あの時のことを覚えているのは中学時代を一緒に過ごした僕だけだ。それがその時の僕の契約だった。そして僕だけの宝物だった。あの時のことを誰かに語ることもないだろう。
 それよりもあの変化は、たぶんみっこを取り巻く環境が影響しているのだろうと思う。みっこは昔から屈託ない性格で男にもてた。それが悪影響を及ぼしていなければいいのだけれど、僕にはどうすることも出来ない。昨日どう見ても二児以上の父親としか思えない老けた大学生が図書室に現れて、みっこのことを根掘り葉掘りしつこく聞いてきた。ストーカーなのかもしれない。いや、きっとそうだ。目がエロくて、存在からして既に思想犯罪の香りがする男だった。そう考えるとみっこの身が不安で仕方ない。だがこれ以上、僕はみっこに近づくわけにはいかない。そう思いながら、どうしてもみっこの声が耳を離れない。みっこの香りが鼻腔を離れない。みっこの思い出が脳に染み込んでいて、どうしても取れそうにない。どうしようもなく悲しかった。
「オイ、腹が減って敵わんぞ」
 そんな僕の気持ちなんておかまいなしに壁の方から声がする。もちろんお隣の声などではない。「うるさい、黙れ。僕だって腹減ってんだ。金ないんだよ! 悪魔め!」うろんげにそちらの方を見ると、この鍵の掛かった部屋にどうやって入ってきたのか、三十ほどに見えるがっしりとした男が立っていた。黒いジャケットに白いワイシャツ、長い足にすらりとしたジーンズを器用に着こなしている。
「うははは、俺に金など必要はない。いつも通りお前の記憶をよこせ」
 悪魔と言ったのは比喩でも何でもない。あの時から僕に取り憑いている悪魔以外の何者でもない。それは普通の人間にしか見えないが、普通の人間からは見えない。僕にしか見えない。僕はこいつに呪われているのだ。
「お前、そのジャケットどうしたんだ。いつも見る度服違うけど、金あるのかよ」
「馬鹿かお前は。悪魔に金など必要なものか。これはお前の記憶の中の男が着ていた服を模した」
「誰の」
「知らん。大学内で擦れ違っただけのようだからな」
「僕は知らない」
「当たり前だ。その記憶を俺が頂いたのだから、お前に残っていようはずがない」
 あ、そ、とだけ僕は言って再び布団に突っ伏した。中学生の時に僕は悪魔に取り憑かれ、時折記憶を食べられている。記憶の悪魔だ。そういう契約だから仕方がないとは言え、基本的に引きこもりで人と関わりたくない性分なので、一人の時を狙って現れるこの悪魔がうざったくて仕方ない。「おい、この老け顔の大学生の記憶なら、食っていいだろう」悪魔がこちらを見て言う。
「勝手に人の中を覗くな!」僕が叫んでみたが、これ以上そのことについて考えたくもなかった。もうその記憶を手放してしまったほうが楽なのかもしれないと考え直す。「ああ……いいよ、その男の記憶は本当全然まるでいらないから、食べてもいい。その代わり、それ使って僕にも食べ物を出してくれ」
「こんな不味そうな記憶じゃ、ミミズのハンバーガーくらいしか出せんぞ」
「……じゃあいらない。貯めといて。それも大したモンにならないだろうけど」
 そうだな、大したモンじゃない、といい終わるか終わらないかで悪魔が静かになった。大方無言で僕の記憶を食べているに違いない。もう慣れたものなので、放っておく。悪魔が口元をモゴモゴと動かしている。もう何の記憶を上げたのか思い出せなかった。おそらくはどうでもいい記憶だったに違いない。しかし空腹時だと差し出していない記憶にまで手を付けようとするから油断できない。僕が忘れっぽい理由の一つはこの悪魔にある。
「ほう、あの女と話したな? 運命の再会ではないか」
 面白そうに悪魔が言った。
「他の記憶を見るな。お前……、彼女の変化について、何か知ってるんじゃないだろうな?」
「知らん。なぜ俺が知らなくてはならんのだ。お前こそ、あの尻軽女のどこがいい」
 瞬間的に、僕の中の何かが沸騰した。
 バネ人形のように立ち上がり、僕より背の高い悪魔を見上げて睨む。
「お前なんかに! みっこを語られたくないんだよ!」
「この前は、他の男と歩いていたぞ」
「知るか!」
「健気な男だな。そして情けない。遠目で見ていれば満足か。図書室であれだけ叫んでおきながら」
 サクちゃん。
 変わっていくっていけないことだったのかな?
 未だに記憶の中で呼ぶ声がある。僕は言葉を失って立ち尽くした。満足なわけがない。忘れてしまいたいなら、すぐにこの憎き男にみっこの記憶を食べて貰っている。忘れたくなんてない。だが、だからと言って今更近づくのも違う。全ては変わっていく。そして機会は流れていってしまうのだ。変わっていくことはいけないことだったのか? そんなこと僕が聞きたい。それなら変わっていってしまうものに、すがりつくことはいけないことなのか? 僕が世界に向かって問いかけたい。
 あの頃のみっこはもうどこにもいない。
 もうどこにもいないのか?
 僕がこのまま続けても?
 悪魔が窓に足をかけた。
「また来るぞ」悪魔は言った。
「もう来るな」僕は答えた。
「お前の記憶は辛気臭くて敵わん。過去に縛られすぎなのだ。契約を思い出せ。お前は俺に必要量の記憶を差し出し、俺はお前に必要な記憶を渡す。それ以上でもそれ以下でもない。必要以上にしみったれて、久しぶりに話した好きな女一人にも、まともに近づけんとはな」
「うるさい、詐欺師が。お前に、人間が変わっていくことの怖さが分かるのかよ」
「やれやれ。そこまで遠目で見たいのならば、『ふろーら・しょうだ』に行け。大通りから外れた、静かな裏通りにある」
「はぁ? 何で、どこだ、それ」
「知らん。具体的な情報が見つからないのだ」
「……出てけ」
「女の変化は、何かを伝えたいんじゃないのか」
「出てけ!」
「イエス、言われずとも」
 どんなに不味い記憶でも、多少腹が膨れてご機嫌になったのだろう。鼻歌なんかを歌いながら窓から出て行った。三階からジャンプして見事着地したはいいが、それから先は置いてあった自転車に乗って去っていった。変なヤツだ。
 お節介な悪魔め。
『ふろーら・しょうだ』
 おそらくはあの花屋のことだろう。よく通る大通りの隠れた道を入らなければならない。知らなかったし行った事もないが、コラボなんだし、この程度のことは僕が知っていることにしてもいい気がする。だいたい僕は参加したはいいが、他の人と絡むストーリーが全く思いつかない。脳髄からして引きこもりなのだ。小説の中で引きこもってどうする。誰か僕を解放してくれ。みっこ。正直な話、みっこは今どこにいるんだ? みっこが僕らの中心なのに、みっこ、どこかへ置き忘れられてないか?
 例えば、僕の記憶の中に。
 ――サクちゃん。
 声が聞こえる。これは図書室で聞いたあの声ではないのかもしれない。もっと前の思い出なのかもしれない。あの時の記憶なのかもしれない。みっこ。お前は進み続けているのか? 留まり続けようとする僕が愚かなのだろうか。みっこ。お前は、音楽が得意だった。ギターを貰ったんだって、馬鹿みたいに喜んでいた。僕はそれをいつか聞ける気がして、それでまだこんなことを続けている。みっこ。僕は昔へ帰りたい。絶対的な近さと遠さを感じるあの頃に戻りたい。やっぱり昔の方が良かったよ。僕はこれからも、思い出にすがると思う。今は良くても、いずれ笑われることだろう。
 みっこ、何かを伝えようとしているのか?
 過去に届かなかったものは、未来でもやっぱり届かないままなのだろうか。
 それを少しだけ確かめたい。

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三日目:サク編 03話

 今日の講義には博物館経営学がある。
 僕は奇石博物館という博物館が好きだった。実家の近くにある。世界各地から集めた珍しい石の数々が薄暗い室内に展示してある。薄い板状でゆらゆらと曲がるコンニャク石、光ファイバーの原理で石の下の像が浮かび上がってくるように見えるテレビ石、それからトンボや恐竜の化石、発光する石などが所狭しと並んでいる。実際、所狭い。全ての展示物を見終わると、見てきたばかりの石を取り扱うショップが唐突に現れ、珍しいテレビ石などを陳列して少年少女の心をがっしり掴む構造になっている。何よりも驚くべきはその人口密度で、少なくとも僕が何回か足を運んだ限りでは来館客とは数えるほどしか擦れ違わなかった。それでも長らく続くあの施設の経営状態が非常に気になる。
 そういう意味で博物館経営学は好きだった。だがどうも僕は頭が悪いみたいで、講義の内容を説明することが出来ない。テストはそれなりに出来るのだけれど。いや、本当です。
 結果的に言うと、僕はその講義を無視した。講義に行かないなんてことは日常茶飯事なので、別に心も痛まない。
 しかし、僕は一体何がしたいのだろう。
「何してるかな僕は」
 一人ごちる。僕は大学にも行かず昼間から街を徘徊した。いつも通る大通りをどうにかこうにかしながら、静かな裏通りに入る。何だかアウェーの空気で精神がピリピリした。気をつけろ、ここはおそらく他人の領域だと僕は自分を戒める。「あった……」ちんまりとしたあまり可愛くない花屋が目の前に唐突に現れる。それが『ふろーら・しょうだ』だった。
『ふろーら』は何となく分かるが、『しょうだ』にはどういう意味があるのだろう。それが僕には分からない。だいたい悪魔から伝えられた情報が少ないし、他の様々な人が書いた、ほら、あの、色んな情報にもまだ目を通していない。ここが何だっていうんだ。今は誰がいるのだろうか。みく子に関係があるというのだろうか。知らないのは僕だけだろうかと不安になってくる。
 悪魔が言った通り、遠目で花屋を見つめている自分にはっとして、それから苛々した。僕は何をするめに来たのだろうか。花屋の奥の方で人影が動いた。それが男性だったこともあって、多少安心して花屋へ足を向ける。忙しそうに働いている、働くことが生きがいのようにキラキラしていた。僕はこういう人を見ると申し訳なくなって平伏したいような気持ちになってくる。だがその男性は花屋というよりも北斗神拳継承者のような筋骨隆々の体をしていた。なるほど、花屋は軽いものから重いものまで持ち運ぶのだろう。これは仕事だけで鍛えられましたと言わんばかりだった。ますます申し訳なくなる。
 男性は今は懸命に鉢植えを運んでいる所だった。
 そして鉢植えを床に整理して立ち上がると、突然額をぺチッと叩く。
「うわわ、またアカがなくなっちまった!」
 どうやら花の色のことを言っているらしいが、なぜか僕には別の意味に聞こえた。おそらく花の色から配置まで考えているのだろう。僕はそのままどうしようかと思った。「みく子のことを知っていますか」とでも尋ねればいいのだろうか。人の良さそうな男性に見える。もしかしたら何か知っているのかもしれない。ただ、それを聞いて僕はどうする。そんなことを考えていた。そうして随分と店の前で立ち尽くしていると、男性がこちらを見て気付く。当たり前だ。ずっと花屋を見つめている自分はさぞかし怪しく映るだろう。「いらっしゃいませ?」しかし男性は優しく声を掛けてきてくれた。
「あ、はい……」
 我ながら花屋に行っておいて「はい」もない気がする。答えてしまったからには少しだけ店内に足を運ぶ。思ってみれば花屋に来るのも初めての経験だ。どうしていいのか分からない。好きな花を選ぶべきなのか、それとも、店員に勧められるままに花の香りを楽しめばいいのか。
「何か探しとる?」
 僕のそんな直立不動の態勢を見て察してくれたのか、男性が声を掛けてきてくれた。関西弁だった。誰が何と言おうとこれが関西弁でいいじゃないか。正直に言えば、関西弁はよく分からない。僕にはそう聞こえたが、それが正しい関西弁とは限らない。これは確かに関西弁だと自分を信じていこうと思う。信じたいものを信じるしかないじゃないか。
「いえ、別に……」
「そう、でも花屋が好きなんやねんね?」
「そういうわけでもないんですけど」
 悪魔に聞いたんですけど、この店はみく子に関係があるのですか? 僕はその言葉をぐっと堪えた。これ以上、踏み込んではいけない。ここの店にではない。みく子に踏み込んではいけないのだ。みく子には、既に僕とは離れた世界がある。僕がそれに近づくわけにはいかない。だいたい店をじっと見ていたり、そんなことを聞いてはただの怪しい人間に思われるだろう。
「そういうわけでもないのに、入っちゃったんやろ。分かるで。花はそういう魔力を持ってるんやで。君も何だか花に癒されたそな顔しとるで」
「そうですか?」
「そやそや。そやで」
 癒されたそうな顔。僕が? そんな顔をしているだろうか。もう癒されるということが何なのか分からなくなってしまった。僕には目的がある。契約がある。だけどそのために精神も記憶もぼろぼろだ。それが正しいと思って信じてきた。だけど最近ではその信念も揺らいできている。何のために僕は生きているのだろう。この空白感を埋めて欲しいということが、癒して欲しいということなら、そうだろう。僕は癒して欲しいのだろう。この心を。この精神を。僕の未来を。僕の過去を。みく子を。
「花、買ってき」
 男性が静かに言った。見透かされたような気持ちになる。
 その優しい目線はやっぱり花屋にぴったりだと思わざるを得なかった。
 僕は何かを言おうとして、口を開いて、そして言葉を選ぶ。
「じゃあ……じゃあ何がいいと思います?」
 それだけを尋ねた。
 僕が花に癒されると言った本人だ。何か的確な選択をしてくれそうな気がしたからだ。
「それは知らん」
「……知らんですか」
「自分が見たいものが一番いいんやよ。何の花が好きや?」
 僕は多少考えた。別に花は好きでもなかったが、綺麗だと思うのは何だろう。悲しいくらい連想力がなかった。花は四季によって移り変わる。四季。春。春は桜だろう。確かに桜は綺麗だと思う。だが桜はさすがにないに決まっている。
「……コスモス、かな」
「静かで綺麗な花やね。似合うで」
「あります?」
「ない」
「……そうですか。僕帰っていいですか」
「まぁ待ち。花はないが、種はある。時期はごっつ遅れとる、せやけどもしかしたら咲くかもしれんで」
 花がないのに季節はずれの種を売ろうとするとはさすがに関西人だと思った。必要なわけでもないが、別に不必要なわけでもない。「いくらです?」と聞くと、手もみをしながら「さすがお目が高いで、ワンコイン、五百円や!」と嬉しそうに答えた。僕は何だか自分の意思で選んだのに乗せられたような気持ちになって、無言で財布から五百円を取り出す。その行動を見た男性がすかさず店の奥の方まで行って、カラフルで四角い封筒のようなものを持ってきた。あれにコスモスの種が入っているのだろう。
 五百円を渡すと、力強くそれを渡してくれた。
「まいどおおきに! 場所はどこでも、バラッと撒けば芽が出るかもしれんで」
 それが花屋の言うことかと僕は思ったが黙っておく。種まきなんて小学生の頃の朝顔以来のことだ。封筒の中に入っている種がどういう形で、どういう色なのか少し考えた。男性が店先まで付いてきてくれる。癒しとか何とか上手くいいながら、はめられてしまった気持ちになる。この丁寧さといい、なかなかの商売上手だと思う。やはり花屋にしておくには勿体無い。
「じゃあ」と僕は店を出る。
「"純潔、真心、調和"」
「え?」
「コスモスの花言葉や。頑張り。花はきっと咲くで」
 実はいい人間なのだろうと思う。
 みく子の話を聞いてきたのに、全く関係なく種など買ってしまった。僕は本当に何をしに来たのだろう。結局あの店とみく子がどういう関係なのか、僕には未だ分からない。そのまま家に向かう。でも、それで良かった。口走らなくて良かった。きっと聞いていたら、この種は手に入れられなかった。遠目から見ていてなんて文句は勝手に悪魔に言わせておけばいい。
 花はきっと咲くだろう。その言葉が温かかった。種を撒けばいつか芽を出し、芽は育ち花をつけるだろう。
「収穫には立ち会えないかもしれないが、出来るだけ多くの種を撒こう」
 それはあのゴルバチョフの言葉だという。僕はその言葉が好きだ。
 どこに種を撒こうか。
 どこかに種を撒こう。
 僕は開花には立ち会えないかもしれないけれど。

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三日目:サク編 04話

 人が過去を思い出すのはなぜだろう。
 もちろん生きていく上で、必要なことはある。直前の記憶を次々と失っていったらまるで生活が出来ないだろうと思う。ただ、ずっと昔の、もう十年にも届くような過去を思い出すのはなぜなんだろう。そんなもので苦しまなければならいのはなぜなんだろう。綺麗な思い出だけを集めていけないのはなぜなんだろう。そんな過去が影響力を持って、未来まで変えてしまうのは何でなんだろう。思い出は僕に何をして欲しいのだろう。指針だろうか。足枷だろうか。
 種を買ってきて、一度家に戻った。
 郵便受けには叔父さんからの手紙が来ていた。いつものことなので内容は見ない。見なくても内容は分かるからだ。家に帰ってくる途中で、種をどこに撒こうか考えていた。下宿先の周りに撒いて、もしも花が咲いた時、自分一人でその花を眺める姿を想像して酷く白けた。その時、自分は何を思うだろう。違う、違う。花というのはもっと違う場所で咲くべきだ。
 僕は花が咲くのに相応しい場所を考える。
 やはり大学だろうか。
 大学の大きな正面入口から入ると、そこは桜が十本程度植えられている桜並木になっている。もちろん今の季節に桜などない。人はそこに植えられているのが桜の木だったってことに、春にしか気付かないものだ。花は人の意識とは関係なく咲くし勝手に散るけれど、それを綺麗だと感動して、綺麗だったと儚く思うには人の意識が要る。花が綺麗に咲こうとしているのかどうなのか、僕には分からない。だけど、花の綺麗さを感じるには人が必要なのだ。僕一人だけじゃ虚しいだけだ。多ければ多い方がいいと思う。その点大学なら多くの往来があって、花を綺麗だと思ってくれる人も多いだろう。
 僕は花屋から帰ってきて十分後、自転車に跨って大学に向かった。そういえば僕はここ数日講義という講義を受けていないけれど大丈夫だろうかと心配しながら、また講義ではない理由で大学に向かっている。
 歩道に人が多くなった。大学の正面入口が目の前だからだろう。そろそろ昼なので、昼食をどうにかしようかと彷徨っている大学生が多いのだろう。自分を含めて、僕の周りにも真面目に授業を受けて勉強をしている大学生なんて見たことがない。みんな暇つぶしに大学に来ているだけだ。僕はなぜこの大学に来たのだろうか。ここが良いと思った特別な理由なんてない。ただ何となく自分のレベルに合った場所を探していたらこの大学が存在し、僕の人生の先にあるような気がした。なかなか無差別なカリキュラムを組む大学なので、勉強への意欲次第では面白いことが学べる。だからここに来てしまって気付いたことだが、レベルに関係なくここに望んで入学した学生も多いみたいだ。
 そして僕は再び、みっこに会った。
 中学の時は学力のレベルがかなり離れていた。みっこが上だ。僕らは仲が良かったものの、結果的に仲が良いだけで終わってしまったから、当然みっこは自分のレベルに見合った高校を受験して受かった。受験生の僕がそのことについてどれだけ悲しんだか、誰にも分かりはしないだろう。でも学力の差はどうしようもない。学年順位中の下のしがない男が、学年順位トップに近い彼女には追いつけない、と僕はそこでまず一つ色んなものを諦めた。振り返れば僕の歴史なんて諦めの歴史みたいなものだ。それでも惰性でも僕は、ここまで続けて生きてきた。このまま僕はどこまで行けばいいのだろう。
 桜並木の下に着いた。桜の枝の下に自転車を置いて、降りる。人は多かったが、僕を目に入れるような人はあまりいないだろう。
 下を見ると土が露出していて、砂利が少し多めだが、比較的軟らかそうな土だった。少し湿っているように見えて、それが余計に栄養面でも心配がなさそうに見えた。僕はバッグから種の封筒を取り出す。このバッグは教科書を入れるために買ったのだが、その役に立っているとは言い難い。最近は講義へも平気で教科書を確信的に忘れていく。あってもなくても講義は受けられるし、あってもなくても内容が理解出来るわけでもない。
 種の封筒上部を破る。中を見ると予想とは違って黒くて細くて針のようなものが出てきた。種というからもっと丸くて可愛げのあるものだと思っていた。考えてみれば僕には朝顔の種、ヒマワリの種くらいしか種に関する知識はない。あとは食用にしているものくらいか。僕はその一つを指でつまんで桜の根元の真下に投げた。それは当然だけど、無言のままポトリと落ちて、落ちた時にはもうどこに落ちたか判別出来なくなってしまった。この虚しさは何だろう。未来に向けて、何を投げる行為というのは本当はこんな虚しいことなのだろうか。そうかもしれない、と僕は実感として思う。
 もう一つ投げる。無言で落ちる。「ここに落ちたよ! 頑張って咲くよ!」くらいは言って欲しい。せめて落ちた瞬間に芽を出すとか、そういう手がかりとか手ごたえが欲しい。だけど無言だ。泣きたくなってきた。僕は封筒の中に手を突っ込んで種を取り出すと、バラッと地面に向かって投げる。あの花屋の男性も「バラッと撒けばいい」みたいなことを言っていたから、これで別に間違いはないだろう。手から離れた種は分散して地面に落ちた。僕は一歩右に動いて、もう一度繰り返す。そうして豪快に種をぶん投げていたら、数回繰り返したら種が底を尽きた。これだけか、と思う。
 みっこと話したことは僕に決定的な打撃を与えた。みっこの変化が分かったから。
「悪魔。その辺にいるだろう」
 寸秒も空けず、「いる」と真後ろから声が聞こえた。こいつ、と憎らしく思う。振り返ると、そこにはまた別の服装をスマートに決めている男が立っていた。細かいことに髪型まで昨日と違う。それどころか、長さからしてまるで違うんじゃないか。
「いつから見てた?」
「最初からだ」
「暇人なのかお前は」
「我々のような存在は常に多忙だ。契約者を監視する権利と義務があるからな。お前こそ、人前で呼ぶとは何事だ。人前で出てくるなと言ったのはそちらだぞ」
「そんなの勝手だ。他の人からはどうせ見えないんだろう」
「見える人間もいる。まぁ、いい。用件は何だ。まさか二人で種撒きをしろとでも?」
 言いながらゆっくり僕の持つ封筒を指差す。
「種はもう終わった」
「ほう、それはそれは、珍妙な行動を。何をしている? 意図が見えんぞ。花を誰かに見せたいのか? あの女にでも? そんなロマンスを期待するような人間でもあるまい」
「黙れ。みっこは関係ない」
「やれやれ。馬鹿者め。あの花屋に行けとは確かに言ったが、ただ種を買ってくるだけだとは、どれだけ腰抜けだ。教えてやろう。あの花屋は、その女のバイト先なのだ。お前の会った男は店主をしている」
「それが何だ。それを教えて、僕がどうしたら満足だったんだ。そんなロマンスを期待するような悪魔かお前は」
 悪魔は少しだけ押し黙って、「まぁ、いい」と言った。何がまぁいいのか。僕は種が入っていた封筒をクルクルと丸めて、自分の自転車の籠に入れてあったバッグの中に押し込む。そして小さいことに気付く。「お前、花屋の時から見ていたのか」
「言っただろう。最初からだ」
「最初から、ね」
 僕は悪魔の目の前に立った。僕より背が高い。それからがっしりとした体に、言ってしまえば男前の顔をしている。日本人には見えない。人の記憶を食い、それに見合った奇跡を起こす悪魔。僕は中学の頃に出会った。最初から? まさか最初からずっとではないだろうな。そう不安に思ったが、その可能性だって十分にありえる。長い期間の中で、そして僕の宛てのない憎しみの中でタメ口さえ当たり前のように使っているが、相手は何と言っても悪魔なのだから。この男は確実に人の記憶をなくし、そして見事な奇跡を起こす。もっと善いことに使おうとすれば僕は誰かに称えられたかもしれず、もっと悪いことに使おうとすれば僕は誰にも気付かれないまま大悪党にだってなれるだろう。
「お前の力は完全か?」僕はぽつりと尋ねる。
「どういう意味だ?」
「お前の記憶を食う力、奇跡を起こす力は完全か、という意味だ」
「完全だ」
 そして悪魔はその後に、当然だろうと付け加えた。完全。ならば僕の契約も完全なはず。同情も酌量も欺瞞も打算もなく、手抜かりも間違いもないということだろう。そんなこと僕自身分かっている。やはり、そういうことなのだ。みっこ。それならば僕は何のために、こんなことをしているのだろう。
「悪魔、一つ、賭けをしよう」
「賭け?」
「ああ。この種を撒いた記憶を一切合財僕から消してくれ。いつ撒いたか、どこに撒いたか、何を撒いたか」
「ほう、それはなかなか美味そうな記憶だが、なぜそんなことをする?」
「その食べられた記憶を思い出せなかったら、お前の勝ちだ。だが、思い出したら、僕の勝ちだ」
「無理だな。俺に食われるということは、言っただろう。完全なのだ。前後の記憶からの連想さえ利かん。お前が勝つことは絶対にない。だいたいそんなことをして何になる?」
「いいからやれ」
 僕は悪魔に背を向けた。別に正面を向いていたって出来る。
「命令は気に食わんが、では容赦なく頂くぞ」
「余分なところは取るなよ」
 悪魔が僕の後頭部を掴んだ。それなりの量になるようだ。自分の記憶を食われるシーン。それはとても残酷だ。だから僕は悪魔を見ないようにしている。悪魔が記憶を食う表情。一度だけ見たことがある。長い期間の間、一度だけだ。それが僕を捕え縛っている。それは本当に、ああ、これは悪魔なんだな、と認めざるを得ない残酷な顔をしていた。美味そうに、人のものをぶち壊すシーン。そしてその顔を見ながら、記憶を失っていく。失っていくのが分かる。それは急激な変化だからだ。失っていく。何かを、もしかしたらとても大事なものかもしれないものを、自分が望んで失っていく。失っていくことが分かる。
 それなのに、失っていくものが思い出せなくなるのだ。
 あの時のことを思い出すから余計に。
 吐き気がする。

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三日目:サク編 05話

 僕が大切に守り続けているもの。
 内的、外的問わず、忘れることのないように守り続けているもの。そして決して忘れられないもの。みっことの出会い。みっこと同じクラス。修学旅行。みっこの涙。悪魔の哄笑。燃え盛る紅蓮の劫火。空間が壊れゆく爆音。そして生命が囁く無音。僕が記憶するものは全て、忘れてもいいものと忘れてはいけないものに分類される。そうしなければ大切なものまで忘れてしまうからだ。内的、外的問わず、忘れていくからだ。人は忘れていく生き物だ。それでもいい。自然に忘れていくことは幸福ですらある。でも僕はそれすら怖い。人の忘却は変化を伴う。僕は忘れていくことによって、僕が今の僕ではなくなることが怖い。僕は一歩進むごとに僕は自分のパーツを一つ落としていく。一歩進むと血の音がして、僕の指が落ちている。次に歩を進めると、腕が落ちる。ああ、足首が。ああ、耳が。口が、腿が、腸が、目が皮が骨が脳が!
 ああ、守らなければ。
 守り続けねば。
 忘れてはいけない。
 僕がなぜ進んでいるのか忘れてしまう。
 この引きずるような倦怠感に襲われ続けていくのだとしても。
 僕は守らなければ。
 僕は変わらぬ心を守り続けなければ。
 でも。
 僕は間違っているのではないか。
 それが一番恐ろしい。
 今さら引き返すことが出来ない。
「みっこ……」
 僕は助けを請うように小さく呟いた。
 始まりはみっこだった。みっこのオレンジ色の髪が好きだった。みっこはそれを地毛だと言った。髪のことを指摘されると、謙遜しながらも実はみっこは密かに喜んでいる。僕はそれに気付いた時、まるで世界に僕だけ一人、宝箱の奥にもう一つ宝箱を発見した気分になった。みっこの髪色はとても綺麗だ。それが僕の座ってるすぐ左側にある。でもそちらを向くと気付いてしまう。別に気付かれたっていいのだけれど、それだと「共有」ということになってしまって「独占」ではない気がする。でも「共有」もいい。そこが難しいところだった。だから意識して視界を広げて、左側の机に座っているみっこを捕える。視界の隅でも、みっこの髪はよく目立つ。今僕はみっこを「独占」している。でもいつでも気づかれてもいい。「共有」したい。そう、言ってしまえば独占を共有したいんだ。僕はみっこを。みっこが僕を独占してくれればいいんだ。
「みっこ……」
 僕はもう一度呟く。
 ぴくん、とオレンジ色の髪が震えた。
 あ、と思う。
 そんな馬鹿な、とも思う。
 みっこがゆっくりとこちらを向く。
 優しさと親しさと活力に満ちた目だった。
 その大きな目に映されるだけで、僕の心は一杯になる。
「なぁに、サクちゃん?」
 みっこが囁くように応えた。
「え!?」
 そんなわけはない。オレンジ色のみっこはもうどこにもいないはずなのだから。何でみっこが? 僕は怖れにも似たものを感じて、痙攣のように立ち上がる。「ちょ、ちょっと、サクちゃん!」瞬間、今まで僕が腰掛けていた椅子が後ろの席の男子の机にぶつかって横に転げた。木製ながら酷く大きい音が、しんとしていた教室に響く。その音で驚いた女子の何人かがビクリと体を震わせて、こちらを瞬時に見た。
「サクちゃん……何してるの……」
 一層声を潜めたみっこがこちらを諌めるように見た。「みっこ……!?」僕は目の前のみっこをまじまじと見つめた。「何、どうしたの」みっこが目を逸らした。みっこは何度見てもみっこだ。オレンジ色の髪をして、笑顔の似合う利発そうな誰からも好かれる顔。僕は周りを見渡した。学生服とセーラー服に囲まれている。自分の胸から下を見てみると、もちろん自分も同じ格好をしていた。右を見て、左を見て、どこから見ても中学の教室だということを確かめてから前方を見てみると、黒板に円の図形を書いていた先生がこちらを睨んでいる。そうだ、あいつは理科の先生だ。フリーハンドで真円を描けるとか言って、自分の右手をゴッドハンドとか言い放つハゲだ。一度の授業で必ず一度は円を描く。その日のバイオリズムを計るのだという。馬鹿だと思う。
 そう、今は中学の理科の授業だった。
「サク、よく寝れたか」
「え? いや、あの、違う、えっと?」
「寝ぼけるな、馬鹿!」
 ハゲは激怒した。
 おかげでその日の理科は、クラスメイトの嘲笑を一身に背中に受け、十回は指名されることになった。内九回は答えられなかった。残りの1回は、みっこの囁き声に救われた。だが、それはしっかりとハゲの耳にも届いていて、みっこ共々怒られた。そして周りからはからかわれた。生活習慣の注意に始まり、性格の素直さ、好きな漫画の有害さなど、まるで関係のないことまで滔々と諭され、だからお前が悪いんだと断罪された。自分が悪いことくらい分かっている。でも「何で悪いか分かっているか」と聞かれても「はい」と答えれば「分かっていない」と決め付けられ、「いいえ」と答えれば「何で分からん」と叱られる。分からず屋はお前だと心の中で舌を出しながら話半分で聞いていた。きっと人に対して怒る人間というのは、自分に酔ってしまうんだ。ここまで感情を発散できる自分に酔ってしまうのだ。目の前のハゲも同じ。もう散々だった。
「何で一時間目から寝てるの、もう」
 休み時間になると、みっこがわざわざ僕の机の前まで来てくれた。多少ふくれっ面だ。それはそうだろう。答えを教えたばかりに自分まで怒られたのだから。その割に優しい笑顔をすぐに作って、僕の話を聞いてくれる態勢を整えてくれる。みっこのそういうところがいい。「いや、寝てたっていうか……夢を見てたっていうか」僕はしどろもどろになりながら答えた。
「それって寝てたってことじゃない」
「でも怖い夢だった」
「サクちゃん、人の話聞いてる?」
「聞いてる。みっこは聞かない? 怖い夢の話」
「知ってる? 人の話で一番つまらないのは、その日見た夢の話だって」
 みっこはそう言いながら、バッグから体操服を取り出す。それを顔が全部黒色のネズミのキャラクターが描かれたビニールの袋に詰めた。お世辞にも可愛いといえない。ただみっこはそのキャラクターを昔から愛していた。よく見ると、そのビニール袋には油性のマジックで「ネズミーらぶ」と手書きで書かれている。ハートマーク付きだ。わざわざ自分で書いたのだろう。そういうことをみっこはマメにする。僕にはその感性は分からない。ただ、その字が可愛かった。その字を切り取って自分の部屋の机の中に入れておきたい。そういうことは本人には言えない。僕はずっと言えないんじゃないか、と思う。「え、どこ行くの?」周りを見渡すと、他のクラスメイトもめいめい動き始めていた。主に女子が。「馬鹿ね、次、体育よ」
「え、僕も?」
「当然」
「うそ、男子ってどこで着替えるの?」
 それを聞いたみっこが心から不思議そうな、あるいは心配そうな顔をして再び近づいてきた。「サクちゃん、大丈夫? 今日何だかおかしいよ」あんまりにみっこの心配そうな顔が近づいてきて、僕はいたたまれなくなって首を大きく振って左を見る。「熱でもある?」みっこが僕の顔を追いかけて覗きこんでくる。「だ、大丈夫! ほらさ、まだ寝ぼけてんのかな僕」
「もう。男子はいつもここで着替えてるでしょ」みっこが首を振りながら答える。
 周りを見ると多くの男子が自分のワイシャツに手を掛けていた。そしてみっこを見ている。これから着替えるっていうところで多感な男子学生の中に一人女子が混ざってるのだから当たり前だ。「笠原、着替えていい?」そんな男子の声を受けてみっこは軽く笑いながらそそくさと出て行こうとする。何てことはない。今みっこに話しかけた男子もみこっこのことが好きなのだ。僕は確実な噂でそれを知っている。みっこに話しかける機会を待っているのだ。その点、僕は話しかける機会などわざわざ見つけなくていい。もしかしたらあいつは嫉妬してたりするんじゃないだろうか。それが言い知れぬ優越感だった。
 僕はふと、思い出すようにみっこに向かって尋ねた。
「みっこ、悪魔って信じる?」
「もう行かなくちゃ。なぁに突然。それが怖い夢の正体?」
「まぁね」
 みっこがくすくす笑う。僕はその口から洩れる息を閉じ込めて自分の部屋に充満させたくなる。でも僕にはそれが出来ない。みっこはもてる。変に気取った所もなく、明るくて面白くて優しい。頭だっていい。だからもてる。でも、その程度のことしか知らなくてみっこを好きになる男はまだまだだ何もみっこを知らないと思う。そんな表面の性格じゃない。みっこにはもっと人を惹きつけるものがある。それが何なのか、僕も言葉で説明するのは難しい。自分にないもの、だと思う。みっこは僕にないものを、これかな、これかな、と言いながら優しく試してくれる。そのふわふわの布団に自分が納まる感触が、とても温かい。もっと近づきたいと思う。そして僕が何よりも嬉しいのは、みっこが一番近づいてくれるだろう男子は僕だということだった。
 それでも僕とみっこの距離は遠い。自分は貪欲だと思う。もっと、みっこに近づきたい。もっと独占したい。もっと共有したい。
 でも駄目だ。
 一を無限で割ると零になる。
 僕はみっこに誰よりも近く、そしてみっこから誰よりも遠い。
「小学生みたい」
 笠原、と再び男子が呼びかける。
「もう行くね」
「うん」
 みっこがネズミーのバッグを持って後ろを向いて歩き出した。ふわりとオレンジ色の髪が泳いだ。本当にネズミーは可愛くないなぁと思った。あれは異次元の生物だと思う。でも、「ネズミーらぶ」と一緒に眺めると不思議と可愛く思えてくるから不思議だ。
 途中の教室のドアでみっこが振り返った。
 僕がずっと見ていたのを気付かれた気がして、少し決まりが悪くて視線を逸らす。
「でもね、サクちゃん。悪魔って、結構いい人だと思うな」
「え?」
 いい人? まず人じゃないけど、と僕は思う。
 みっこらしい考え方と言えばみっこらしかった。
 僕は引き続きだらしなくみっこのオレンジ色の髪がドアの向こう側に消えるまで見続けた。
 その後自分のバッグを確かめて、体操服を忘れたことに遅まきながら気がついた。

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三日目:サク編 06話

「お寺、どこ行きたい?」
 昼休みの初めにみっこが僕の机に近寄って聞いてきた。僕の机の端を両手で掴んで座る。机から顔がひょっこり出てるような態勢が妙に可愛らしくて、僕は目を逸らした。
「お寺?」
「修学旅行の」
 ああ、と僕はみっこの言いたいことを理解する。そうだ、修学旅行の計画を立てなければならない。修学旅行は京都だった。もうずっと前から京都なのだろう。正直な話、特に京都に行きたいわけでもなかった。だからと言って、別にどこかに行きたいわけでもなかった。何となく修学旅行だというから京都に行って、まぁ楽しい旅行にはなるだろうとは思う。おそらく教師陣としても毎年同じ場所に行き同じことをすれば一定の安全は確保できるし、生徒もそれなりに納得してくれるから、京都に行くのだろう。その計画を立てなくてはならない。バスの時間までピッシリと決めて寺院を回るなんて笑ってしまう。先生から配布されたガイドブックに軽く目を通してあるけれど、またバスの到着時間を求めるのが大変で、それなのに十分置きくらいにはバスは走っているのだ。色々調べて十分のタイミングを合わせるより、行き当たりばったりで臨んだ方が楽しく過ごせるんじゃないかと思う。今日の五時間目はその計画のためにオリエンテーションという名目で道徳の授業を取り潰し、班員でガイドブックの時刻表を吟味しなくてはならない。
「お寺なんてどこ行っても同じ気がするけど……」
「そんなことないよ」
「そんなことあるって。みっこはどこ行きたいのさ」
 うーん、とみっこは考えて、「金閣寺?」と小首を傾げた。「それ、一番メジャーだから知ってるだけでしょ?」僕がからかうように言うと、みっこは悪魔的な笑みをみせて、えへへ、と笑った。
「だけどね、サクちゃん。銀閣にも行きたくない?」
「まぁね。有名だもんね」
 「でもね」と言いながらみっこは自分の机に戻ると、机の中から京都のガイドブックを取り出してきた。先だって先生に配布されていたものだ。今は班長であるみっこが所持している。中をパラパラとめくると薄い冊子のくせに、全てのページに「見所!」と文字が楽しげに踊っている。「見所!」を見て回るのに、何回修学旅行に行かなければならないのだろう。これだけを配布して「半日で行ける範囲を選べ」というのは、みっこのように修学旅行を心から楽しみにしてそうな生徒にとってみれば逆に酷なことだと思う。
「見て」みっこがガイドブックから京都の全体の地図を広げた。
「何?」
「金閣寺と銀閣寺はちょっと遠いんだ。駅から離れてるし。これ、両方行っって、最後は二条城に行かなきゃダメって先生言ってたでしょ?」
「うん、言ってた。ちょっと無理だよね。無理して二つ、行ったとしても他行けなくならない? 清水寺とか」
 僕はみっこの持ってきたガイドブックを手に取りながら言った。
「でしょ? これって可哀想ね」
「可哀想? そう? まぁどうせなら両方見たいもんね」
 金閣寺と銀閣寺。両方行けないなら、強いて言うなら僕は金閣寺を選ぼうかと考えていた。金閣寺と比べると銀閣寺は寒々としていてカラカラのお爺さんを連想してしまう。縁側で緑茶を飲むお爺さんだ。確かにそれも味があっていいとは思う。でも見た目の華やかさ、見る人にとってのサービス精神、エンターテイメント性なら間違いなく金閣寺だろう。クラスメイトのほとんどがそう考えると思う。ただ、金閣寺からして駅から考えると少し遠い。まるで卒業旅行に来た修学旅行生を試すかのような位置に建っている。割合駅の近くにある清水寺には僕でも興味をそそられるし、祇園の辺りだって色々ありそうだ。でもその辺で時間を潰していたら、帰りの時間も考えるとかなり厳しい距離に金閣寺はある。これは本当にバスの時間をキッチリ決めてかからないといけないぞと考えていると、「うん、それは両方見たいけど、可哀想っていうのは」とガイドブックの横から僕の顔をじっと見た。
「選ばれなかった方は可哀想だと思う」
 みっこはそう言った。それから「あ、そろそろ五時間目始まるね」と言いながら、自分の席に着いた。僕の机にガイドブックが残される。まぁどうせ五時間目は班員がまとまって修学旅行のことを相談するのだから、僕が持っていても差し支えはないだろう。僕は五時間目を告げるチャイムを聞きながら、ガイドブックを開いた。おそらく、僕の班では「選ばれなかった方」になるであろう銀閣寺。桜の季節の哲学の道とやらが載っていた。修学旅行は五月だ。もう桜なんて咲いていない。銀閣もやっぱりくすんだ灰のような色をしていて、やっぱりお爺ちゃんと縁側と緑茶が似合いそうだった。
 五時間目を告げるチャイムが鳴ったと同時に、廊下で待っていたかのように担任が入ってきた。初老の物静かな先生で、怒ったところは見たことがない。ただ眼光が鋭く、生徒の不届きを見るとき眉をひそめる表情は影で「千里眼」と呼ばれている。名前は竹島。この学校の中で僕が一番好きな先生だ。生徒を決して特別扱いしない。そして蔑ろにもしない。ただ、一人の人間として見てくれる。素っ気無い人間だと多くの人に思われているようだけど、他の先生のようにベタベタしてなくて、街で全くの他人に道を尋ねて親切に教えてもらったようなさっぱりとした温かさがある。ああ、そうだ銀閣寺が似合うタイプだろう。
「席につけー」
 語尾を伸ばして先生が静かに言った。教壇をノックするように、コツコツと指で叩く。それが先生の授業の始まりの合図だ。その音を聞いて、教室の方々に散らばっていた生徒達が磁石の玩具のように自席に着いた。
「竹さん、何か機嫌よさそうね」みっこのひそひそ声。
「そりゃ京都好きだって豪語してたからね。よく似合うよ」
「そうね」
 みっこが右手で口を押さえてクスクスと笑う。
「今日は昨日言った通り、みんなに修学旅行の計画を立ててもらいます」
 先生が説明を始める。自由行動は駅前のホテルに泊まって二日目だということ。最後には二条城に立ち寄って、常駐してる先生に確認を貰うこと。自分は二条城の常駐にはなりたくないこと。清水の音羽の滝を飲みすぎて腹を壊さないようにすること。珍しくいつもより饒舌で面白い。みっこを見ると微笑を浮かべながら、表が書かれているプリントを机の上に出していた。それは班長だけに渡される自由行動についての計画書だ。「昨日配布したそれに」と言いながら先生がみっこの机を指差す。「自分達の行く場所と、移動方法、それから時間を書いて、この時間が終わるまでに提出です。分からないことは聞いてください。バスはいいんですけど、特に歩く時間が予想出来ないかもしれません。はい、じゃあ始めてー」
 机を動かして、班を一塊にする。全部で六人だ。
「音羽の滝って何?」
 僕が班員の顔を見回して聞いた。
「サクちゃん、知らないの?」
「知ってるといいことある?」
「たぶんね。清水寺にチョロチョロって流れてる小さな滝が三本あるのよ。それ、一本一本意味があって、飲むとご利益があるの。えっと、確か学問と恋愛と、健康か長寿だったかな」
 ふーん、と僕は興味なさげに頷いた。それはポーズだ。みっこ。恋愛を飲みたいなとチラリと思って、自分の考えに内心恥ずかしくなってしまった。それとも学問を飲んで成績を上げて、もっといい高校を狙うべきだろうか。みっこと同じ高校。このままでは行けないことは確実だ。みっこは何を飲むんだろう。健全な中学生が好きな相手がいないなんてことがあるだろうか。みっこだって例外じゃない。急に不安になった。考えてみれば、みっこと一番親しいと自負している自分はただの自意識過剰かもしれない。みっこには恋愛を選んで欲しい。だけどそう望みたいのは、みっこの意中の相手が僕の場合だけだ。みっこは誰にだって優しくて温かい。みっこと一番親しいのは、たぶん、もしかしたら、僕かもしれないけれど、もしみっこが実は好きな人とは話せなくなってしまうようなタイプだったとしたら、僕と親しげに話すのは僕のことを好きじゃない格好の証拠になってしまう。でも、もしみっこも僕のことを好きだったとしたら、それは、両想い、ということになる。両想いだったら何が起こるのか、僕には分からないけど。でももしそれを望みながらみっこが恋愛の滝を飲もうとしてくれるなら僕は飛び上がるくらい嬉しいだろうと思う。何だか考えれば考えるほどわけが分からなくなってしまった。みっこは何を飲むつもりなの? その質問が聞けなかった。墓穴を掘るような気がして。
 しかし、班員の男子がハンドブックの清水寺のページを開きながら、口を開いた。
 視線が固まっている。緊張しているのだ。
「笠原は、何を飲むの」
 震えた声だったが、ナイス質問だった。今日のクラスのMVPにしてあげたいと思った。ここでみっこだけにその質問を投げるのは明らかに不自然だ。とても勇気がいる冒険だ。僕は恐ろしく思った。ライバルにはライバルの臭いが分かる。でも、そんなことは気にしていられない。みっこの返答を待つ。
「うーん……」
「うん」
「健康かな」
「ええ……」
 僕と彼が言葉を合わせた。思わず二人で目を合わせてから「それはないよな」と確認しあう。
 その後ハッと気付いて目を逸らした。
 一番無難な答えだ。
「何で? 他はいらない?」
 彼が果敢に攻める。
「うーん、いらないこともないよ。でも、私、これでも病弱で病気だったから」
「え、そうなの?」
 それは僕にとっても初耳だった。みっこはいつも溌剌としてて、風邪だって笑顔で跳ね返しそうな気がする。実際、みっこが学校を休むなんてことは滅多にない。僕より少ないくらいだろう。僕は季節の変わり目は必ず風邪をひくから。健康そうな肌や、元気を塗ったようなオレンジ色の髪。僕の好きなみっこはいつだって明るい。
「昔の話よ。もう治せたから」
 付け足すようなみっこの慌てた感じと、「健康以外はいらないの?」と聞かれたみっこが「いらないことはないよ」と言ったのをいつまでも覚えている。それに少しだけ疑問と希望を見つけて、僕はそれをいつまでも覚えている。

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三日目:サク編 07話

 晴ればかりが続くと、逆に不安になる。
 僕は思うのだ。人が雨というものを初めて知ったのはいつのことだろう。ヒトがヒト以前の時から雨は確実にあった。それに神話だの科学だのの理由をつけたとしても、人はヒトになる前から雨を確実に知っていた。進化を逆に辿って、類人猿になって、ネズミみたいな哺乳類の祖先になって、その先、いや後ろか。その後ろにはたぶん、生命の根源みたいなものがあった。でもその頃から、いや生命が陸に上がる以前からきっと雨はあった。だから僕は思うのだ。人が雨を初めて知ったのはいつだろう。人が生まれて初めて見るのはいつだろう。たぶん、赤ん坊の頃だ。赤ん坊は雨が降って驚くだろうか。驚かないように思う。赤ん坊の頃から雨を見ないまま大人になって初めて雨を見たら、驚くだろうか。驚かない気がする。驚くかもしれないけど、少なくとも僕は雨を知らない人を知らない。たぶん、日食とかなら人は驚く。でも雨は驚かないと思う。雨というものは、生まれながらに記憶にインプットされているような、そんなありふれた記憶だと思う。だから人は雨が必ず止むとどこかで思っているし、晴れが続いても雨がどこかで降ってしまうんじゃないかと不安に思っている。
 修学旅行の一週間前のみっこが、そうだった。
「日本って梅雨があって、嫌ね」
「まぁね。何で?」
「もう、空の上は不安定になってきてるかも」
「まだ梅雨入りは、一ヶ月くらい先だと思うけど……」
「でも油断は出来ないわ。いっそ今降っちゃった方がいいかも」
「今降り出して雨、一週間続いたりしてね」
「それも困る」
 みっこが首を横に降った。長いオレンジ色の髪が風に泳ぐようになびく。今日はもう月曜日。来週の水曜日には修学旅行で京都に旅立つ。計画表はまだ出来ていない。実は一度作成完了したのだが、今は白紙に戻った。一度目は主にみっこが作った。班員は「あそこに行きたい」「ここが綺麗」などと言うだけ言って計画の方はみっこに全部放った。当然授業一時間で出来るわけもなく、計画表をみっこが家に持ち帰って一人で一度作ってきた。まぁそのくらいなら他の班も似たようなものだったのだけど、みっこが次の日作ってきた計画表の出来栄えは一際見事で、おそらくガイドブックを隅々まで読破してきたのだろう。勇敢に班員の夢を詰め込んだ結果、例えば三十三間堂の持ち時間は十分だった。たぶん三十三間を全力疾走しなければ実現は難しいです、と竹島に真顔で指摘され、一同反省のもと、今日学校の帰りに近くの公民館で再び作成することになったのだ。
「この公民館、少しだけ本があるのね。初めて知った」
 みっこが少し弾む声で言った。
「来たことないの?」
「サクちゃん、あるの?」
「まぁね。そこら辺にある諺とか漢字の四コマ漫画面白いよ。あ、たぶんその裏の本棚にある『たかしよいち』の歴史漫画はおススメかな」
「凄いわね。最近来たの?」
「小学校の頃までちょくちょく来てたかも」
「でも両方漫画なのね」
「まぁね……」
 ふふ、と笑いながらみっこがガイドブックと白紙に戻った計画表を円テーブルの上に出した。椅子はちょうど六つあったけれど、班員の集まりが悪くて四人しか来ていない。あまった二つの椅子に僕らはバックを置く。
「そう言えばさ、ここなら京都の本、もっとあるんじゃない?」
 みっこが今世紀最高の発見のように、キラキラ輝いた目で僕らを見つめた。
「でもさ、このガイドブックでまとめらんないんだよ。他の本なんて見たってさ」
 僕がガイドブックを指差しながら言ったけど、みっこは「見るだけ」と本棚の奥の方へ行ってしまう。「かさはらー、俺部活行かなきゃだからさ」とライバルが言った。みっこのことが好きなら部活なんて諦めればいいんだ。その程度の気持ちなら帰ればいいのに、と僕は何だか勝ち誇った気分で、彼を見て思い出した。彼はスパルタで有名な野球部だ。確かに野球部なら行かなければならないだろう。中学生に対して顧問の先生の権限は強すぎる。逆にあの顧問ありて、遅刻を覚悟で公民館まで足を運んだ彼を褒め称えるべきなのかもしれない。でも、まぁ、それは野球部を選んだ自分が悪いわけだし、タイミングというものも悪かったと思う。「いいよ、僕らやるから」と僕は別に悪意もなく彼に伝えた。彼は言葉に詰まって僕を見た。感謝こそされても、そんな複雑な表情で見られるいわれはない。いや、少しあるのに僕は気付いているが、現実的にそうしなければならないだろう。彼にとって部活の優先度は修学旅行よりも高いだろうから。聞いた話じゃ、野球部連中は修学旅行の朝も早起きして筋トレを行うらしい。
「じゃあ俺行くよ。よろしくな」
 彼が鞄を持って出て行く。もう一人の班員は女子だ。彼女はちょっと暗い。あまり話したことがない。長い前髪が目にかぶって、視点が読めない。今はその前髪を邪魔そうに払いながら、ガイドブックを見ていた。京都は呪術の街でもあるらしいので、結構興味があるのかもしれない、と考えてみたがそれは考えすぎだ。彼女は話してみれば結構穏やかで優しいタイプであることを僕は知っている。
「みっこ」
 僕は誰にともなく呟いた。あーあ、僕が止めなきゃというポーズ。本棚の後ろに行ってしまったみっこを追うためのポーズ。
 窓から夕日が差している。赤い。風ではためく白いカーテンに火がつきそうなほど。驚くほど赤い。本棚に詰まった本が燃えそうなほど。そして少しでも影になっているところは、すっぱりと黒だった。その赤と黒の潔いコントラストが綺麗で、原色の空気からは少しだけ夏を連想させた。本棚の数は大して多くない割に、手狭だったので迷路のようで、その奥へ奥へ僕は向かう。「みっこ」再び僕は呼びかけた。何だか、この奥に行ったとしてもみっこはいないんじゃないかという遠さを感じる。
 本棚の迷路の一番奥。
 みっこは赤く立っていた。
 はっとして立ち止まる。僕は絵なんて破滅的だけど、世界中の画家達に「絵を描きたい」と思わせるのは、こういうシーンなんじゃないかと思った。こういうシーンが、写真なんかじゃなくて、自分の目で、自分の記憶で感じたものを、どうにかしてそのまま、絶対にそのまま、狂おしいほどにそのまま残したい、そう感じさせるんじゃないかと思った。僕は絵なんて破滅的だけど、時間を止めてしまいたい、と思った。
 みっこはすらりとしたフォルムで一冊の本を手にとってペラペラとめくっている。髪は夕日を浴びて光に溶けるように赤色だった。そして浴びた光を滴らせるような、さらさらの長髪。形の良い目と鼻のシルエットが真剣さを物語っていた。
「サクちゃん」
 唐突に呼ばれて、体が震える。気付いていたのか。
「なに?」
「ここって図書館だから借りれるのよね?」
「そりゃあね。たぶんカードもあるよ僕。何読んでるの?」
 僕はそこでみっこに近づいた。触れられないものに触れられるような高揚感を持ちながら。もちろん、近づいたってその髪一本にさえ触れることは出来ないということは知っているのだけど。
 僕はみっこが見てた本を見て、少し驚く。
「ギター?」
 みっこが握っていた本は、ギターの入門書だった。しかも結構古い。
「みっこ、ギターなんて始めたの?」
「うん。最近ね。お兄ちゃんがくれたの」
「へぇ」
「だから、これ、借りたいなって」
「ふーん、いいんじゃない。僕が借りてあげるよ」
「ありがとうサクちゃん」
 みっこが嬉しそうに僕の目を見る。僕はそれだけで心が溢れた気がした。このままみっこの方に倒れてしまって抱きしめてしまったら死んでしまってもいいと思った。もし、そうしたら? 周りに誰もいない図書館の奥で、少しロマンチックだ。みっこは、どういう反応をするんだろう。でも、そんな勇気はない。僕は無理矢理心を妄想から引き剥がして、自分でも分かるほどふやけた顔で笑った。
「みっこがギターなんて意外だな」
「そう? でも歌、好きよ。ギターだって筋がいいってお兄ちゃんが」
「それは”あばたもえくぼ”って言うんだ」
「それ、諺の四コマ漫画から? でも使い方、少し違わない?」
「あの漫画、展開が強引なんだよ」
 くすくすとみっこが笑った。まぁ、いいかと僕は思う。このままこんな時間が続くなら別に何らかの進展なんていらないのかもしれない。僕とみっこはこの距離感のまま、くすぐったいような気持ちを抱えて毎日を過ごす。それもいいのかもしれない。終わりなんてないだろうと僕は思った。「行こう。早く決めちゃわないと。みっこが一番遊んでるんだから」
「ごめんね」とみっこが悪魔的に笑う。僕はそれで世界に絶えない戦争まで許した。
 僕は本棚の迷路を歩き出す。
「サクちゃん」
「なに?」振り返った。
 みっこがまだ笑っている。
「いつか、歌、聞かせてあげるね」
「本当に? 約束だよ」
「うん! 約束!」
 みっこが強くおどけるように言った。
 ああ、手をつないでしまいたい。そしてここから歩きたい。でも、そんな勇気はない。僕は無理矢理心を妄想から引き剥がして、自分ではかっこよく笑ったつもりで歩き出した。
 いつか、みっこの歌が聞ける。
 それ自体よりも、みっことの約束が嬉しかった。
 みっこからそれを約束してくれたのが嬉しかった。
 机に戻ると、班員で一人残ってガイドブックとにらめっこしてた彼女がペンをいつの間にか出していた。そして計画書の欄が一つ埋まってる。
「晴明神社」と綺麗な字で書かれた横に二重丸が付いていた。静かな自己主張をチリチリと感じた。あ、そう、そこ僕ら行くんだと冷めて思った。そのセレクトは彼女によく似合っている。
 それから今度こそガイドブックを使い慣れたみっこの監督に加え、僕らの実現可能な妥協をまとめる。金閣寺と銀閣寺、行くならばどっちかという話になって、二対一で金閣寺が負けた。つまり僕が負けた。みっこは銀閣寺を選んだのだ。みっこなら絶対金閣寺を選ぶと思ったのに。「金閣寺は放っておいてもいいような気がして……」とみっこは良い訳っぽく言った。「そうかな……。別にどっちでもいいんだけどさ」
 それらの案を盛り込んで現実的にまとめる。行きたい場所を点として幾つか上げて、バスで線を結んだら自然とまとまった形になった。それでも結構時間がかかった。もう部活も終わる時間だろう。これを昨日はみっこ一人でまとめ上げたのだ。しかも、あんな難攻不落の行程を。余程頭を使ったに違いなくて、僕は申し訳なく思った。
 それを次の日竹島先生に提出した。ギリギリです、と冷静に言われた。本当はもうギリギリも何もない、締め切りは過ぎているに違いない。
 修学旅行が一週間先に迫っている。日に日に増える修学旅行のレクリエーションと、話題が生徒に留まらず先生までも浮き足立たせて、授業どころではない。長いような、短いような、何とも言えない時間感覚で授業が、そして日付が進む。その一週間はずっと晴れていた、ということだけしか記憶に残っていない。幾度となくみっこが教えてくれた天気予報だと、修学旅行の日も晴れなのだという。だけどここまで晴れが続くと、それを疑いたくなる。晴れは必ず続かない。サイコロを振るようなものだ。一が出れば雨。他だと晴れ。この一週間はたまたま一以外が出てくれた。でも一が出る確率は零になったわけではないから、六回振れば確率上一が一度は出る。一以外が長く出続ければ、一は自己顕示欲が強くなったように必ず次に出たそうな迫力を持ってくる。大事なところで一を出してやるぞ、という。気がつくと僕は修学旅行の支度をまとめて、ベッドに入っていた。電気を消す。暗い。溶けていきそうだ。サイコロ。立方体。赤目。一つ。下は六。六。床。茶色の床。赤と茶。間を取ってオレンジ。溶ける。同じ体温。同じ肌。触れる。溶ける。なくなる。全く違う。オレンジ。
 みっこ。触れる。溶ける。なくなる。
 みっこ。
 触れられない。
 届かない。
 白は結果の色。
 まっさら、何もないという色。
 元に戻せない。
 元に戻せない。
 戻す、っていうのは?
 ああ――
 ああああああああああ!
 呻く。
 目を開いた。
 空が見えた。灰色だ。視点がぐっと近くなる。枝が見えた。茶色だ。桜の枝だ。腕を持ち上げてみる。空を握ってみる。問題はない。
 掌を見てみると、泥が付いていた。多少湿気を帯びていて黒い。だから僕はその泥を避けるように手首で右目を抑えた。左目で自分の腕を見ている。その腕に透明な液体が流れた。その液体の筋は肘に達して、水滴になるまで待つと、ぽとりと落ちた。黒い土に落ちた瞬間に消え去る。うっ、としゃくり上げる。情けない。いつの話を思い出しているんだ僕は。でも、まだ思い出せてよかった。まだ僕の理由があってよかった。体が震えた。少し寒い。ただ歯の隙間だけから、熱い吐息が洩れる。噛みしめてないと嗚咽を漏らしてしまいそうだ。これが熱を外に出してしまっているのだ。だから寒い。帰ろう。でもしばらく足が立たなかった。人の気配を感じる。それはそうだろう。ここは大学だ。
 僕は泣いた。さらさらと泣いた。
 随分と長い間、そうしていた。
 やってくれたな。
 一度に多くの記憶を食われると、記憶と精神の統合性が取れず虚脱状態になることがある。というか僕は特に初期、それを山ほど経験した。だからどの程度の質の記憶をどの程度悪魔に渡せばそうならないか、微妙なバランスを知っている。この程度ならまだ軽い。僕は自転車をそこに置いたまま、桜の木に腰掛けていた。食われている、と僕は知った。なぜ大学の正面入口、こんな場所で悪魔に記憶を食われているか皆目検討がつかないが、僕は食われているようだ。おそらくは人前に悪魔が出て、そして僕の記憶を食ったのだ。人前に出てくるなと言ってあるのに。だけど確かなことは承諾がなければ悪魔は僕の記憶を食わない。多少欲張ることはあっても、僕の承諾とは全く無関係の記憶は食わない。そこは律儀に守るやつだ。だから今のこの状態は自分で望んでこうなったのだと思う。
 そして記憶が軽く錯乱した。
 悔しくて悲しい。
 まだ症状は軽い。大して記憶も食われていないだろう。恐らく立ちくらみを起こした程度で、時間のロスもそれほどないだろう。ここまであの悪魔の食事について実体験で研究したのは僕だけだろうな、と自嘲気味に笑う。一体何を食われたのだろうか。こんな場所で。分からなかった。悪魔に記憶を奪われた後、その記憶を思い出せたことは一度もない。
「あぁあ……」
 手と尻と靴に泥が付いている。それを軽く払いのける。何でこんな場所に座っているんだ。そもそもそれが分からなかった。記憶を食われる以前に、なぜ僕はここまで来たのだろう。涙はもう止んでいた。発作のようなものだ。過去という病魔だ。今の僕の理由になった時期の記憶。寂しくて虚しい。近くにぽつりと立ち尽くしている自転車に歩いてスタンドを外した。
 自転車をカラカラと引きながら、大学の入り口に向かう。
 サクちゃん。
 僕を呼ぶ声がする。でもそんなものは幻だ。今、僕は独りなのだから。
 大学の入り口にはガラスケース入りの掲示板があって、いつもつまらない貼り紙がくっ付いている。例えば将棋サークルの地域大会、管弦楽のコンサート、飲酒運転のスローガン、そして大学のニュースなど。どれもこれもがあまり関係なく、白か黒か茶かの色をしていて、大学のニュースすらわざわざ生徒に関係ないものから選んで貼っているのではないかという無関係ぶりだった。見ず知らずのどこかの棟で何かしらの研究をしている教授がどこかの賞を獲ったなどという話は、はっきり言って僕にとっては桃太郎が鬼退治をしたということよりも遠い話で現実味がない。本当はそんな教授なんていなくて、大学が自分の株を持ち上げるために内々に放った自己催眠の一種なんじゃないかと思ってしまう。
 そこに一枚、場違いにも思えるポスターが貼られていた。動きのある色使いの中に静寂があって、活力の中に寂しさがある。飛び回る蛍のような、そんなポスター。僕はそれに見入った。たぶん、生徒の誰かのライブなのだろう。右隅には場所が書かれている。きっと中央に描かれている女性のライブなのだ。かなりぼかされている。でも、僕は気付いた。僕が気付かないはずがないのだ。もし僕が気付かないのなら、これは世界中の誰も気付けはしない。その自負がある。ポスターには触れられない。僕はガラスケースを指でなぞった。ポスターまでは遠い。しかも女性をなぞるのに気が引けて、ギターの方をなぞった。何度も何度も何度も。弾くようにして、音を連想した。
 何度も連想した音が、頭の中で響く。
 それは音楽を成さない。当たり前だ。僕は聞いたことがないのだから。結局聴かず仕舞いだったのだから。今となっては、なぜか聴くのも怖い。今の情けない姿が僕にはお似合いだと僕は分かっているのだ。必死に伸ばしてきた未練が、その音楽を聴くことによってぷっつりととどめをさされそうな気がする。「約束!」そうだ。僕は終わらせるのが怖い、ただの臆病者だ。昔約束したことを、果たせばそこで終わってしまう気がする。臆病者だ。臆病者なのだ。どうしようもないんだ。
 ――行こう。
 変化を見届けるために。

「STREET LIVE」
「Goodbye, orange-girl」

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三日目:サク編 08話

 何かを忘れている。
 まぁ僕が忘れることなんて日常茶飯事なのだが、いつもと少し違う。思い出さなくてはならない、と焦る感情がある。最近は普通、忘れてもいい記憶を悪魔に渡すのだ。だからこんなことはない。「忘れてはいけないこと」に自分が分類した記憶を、食われている。いや、どちらかというと「思い出さなくてはならない」と感じている。おそらく、先ほどの記憶。土の上で僕が虚脱状態になってしまった以前の記憶。僕は何をしていた? 分からない。さすがだ。時系列を追ってみて、そこがぷっつりと切断されている。レールが突然切断されている線路みたいだ。
 だが、この感情。そして悪魔の性格。そしてそれ以前に僕は何を感じていたか。類推は出来る。たぶん、僕は自分を試している。もし思い出せたら、という実験だ。もし思い出したら?
 もし思い出したら、みっこに対するこの処置は正しいと言えるだろうか。
 もし思い出せたら、自分の何が変わるのだろう。
 たぶん、それを試そうとしている。
 家に帰ってから、豪雨が降り始めた。ああ、台風だとどこかで聞いた気がする。ペンキを投げるみたいに、横殴りの雨がガラスを塗っている。圧倒的な水音。轟音。と、外を見て、洗濯物が干しっぱなしなのに気付いた。舌打ちする。もう放っておくことにした。いずれまた晴れたら、Tシャツも乾くだろう。辟易した。腹が減った自分にだ。こんなことなら帰ってくる時に何か買っておけば良かった。コンビニまでは歩いて五分。
「明かりくらいつけろよ」
 一瞬びくっとして、すぐにびくっとした自分を悔しく思った。振り返ると部屋の入り口の方に壁に背を預けている悪魔がいた。どこかのバイカーのように全身黒い皮で統一された服装をしている。それが暗闇で怪しく反射した。どこからこんな服を取ってきたのかまるで分からない。僕が遭遇しているはずなのだけれど。確かにこの背丈でこのルックス。ハーレーなんか乗ったら様になりそうなところがまた頭にくる。
「悪魔が明かりを要求するな」
「悪魔は影が好きなのさ」不気味に笑う。
「お前、さっき大学で、食ったろ」
「食った」
「何を?」
「馬鹿かお前。お前はタンを食べたら、家畜に対して舌を食べましたと釈明するのか? しかも舌の形、食感、味まで事細かに説明するのか? まるで意味がないだろう。それに加え」
 そこで悪魔は面白がるように一拍置いた。こちらをうかがうように、上からの目線で舐めまわす。息が洩れるように酷く人を馬鹿にした笑い方で少し笑った。
「それに加え、何だ?」
「お前が望んだことだ」
 僕は歩き始めた。本当はその記憶の代償に食べ物くらい出してもらうかと思った。しかし止めておく。少し頭にきたということもある。悪魔の嘲笑が横から聞こえて、そして後ろに遠ざかった。「数時間前の、お前がな」悪魔が勝ち誇るように言う。僕が望んだ? さきほどの考えは、たぶん的を射ている。自分を試そうとしているのだ。どうすれば思い出せる? 靴を引っ掛けるようにして外に出た。既に骨が曲がってる傘を持っていく。
 外は災害もいいところだった。
 どこから飛んできたのか、トタンが風を帆のように受けて僕の目の前を酷い破壊音を出しながらぶっ飛んで行った。僕はそれを無心に見届けた後、傘をさして歩き出す。風を受ける方向を考えて傘を傾けなければ、この古い傘も今日限りの命になるだろう。たちまち僕の下半身は傘をさしているにも関わらず、ずぶぬれになった。くそう、やっぱり食事くらい悪魔に頼めば良かったかもしれないと深く後悔する。
 閃光。まるでフラッシュを焚いたかのように強烈なものだった。
 閃光。閃光。閃光。閃光。閃光。
 閃光!
 辺りに雷鳴が轟く。まるで神様が怒ってるかのように。神様が怒る? 僕は鼻で笑った。悪魔と契約している僕はたぶん神様に怒られる存在なのだろう。いつ、この古ぼけた傘に雷が落ちてくるか分かったもんじゃない。日常的に悪魔と接して、記憶を渡して、悪魔の腹を満たしている。こういう人間がいるから、神と悪魔の争いは終わらないのだ。全知全能のくせに悪魔の存在すら止められない。
 全知全能のくせに、あの時、僕を助けてなんてくれなかった。
 辺り一面が暗転した。鋭い閃光だったから余計に暗く感じる。なるほどな、あいつが好きなのはこれなのか、と思った。悪くない。
 コンビニに辿り着く。辿り着いたと言っていい。下半身はもちろん、Tシャツに染みこんで上半身だって濡れ始めている。こんな人間でもコンビニは受け入れてくれる優しい場所だ。
 傘を傘立てに差し込む。溝鼠みたいになっている自分の姿を顧みて少しだけ申し訳なく思って、軒先で自分のジーンズを絞った。水滴がポタポタ落ちる。靴の中に水が入っていて気持ち悪かった。
 もう無駄かな、と思い返して首を上げる。さっと買って、さっと帰った方がまだ親切かもしれない。そして気がついた。コンビニのごみ箱の向こう。辛うじて雨を凌げている建物の隅。そこに店内からの光を受けて、雨の中へ影を伸ばしている人間がいた。女性? あの髪。やめておけ。何も見なかったことにしておけ。僕の理性がつまづく。携帯で何かを話している。雨に遮られて声はことちらには届かない。風雨が強い。それなのに、女性の声はなんて細いんだ。そんな。雨さえ撥ね退けるような、あの頃とはまるで雰囲気が違う。
 女性の目はひたすらに、アスファルトに落ちる水滴を見ているようだった。そこに悲しみの全てがあるように目が暗い。肌は白い。イメージチェンジだとしても、白すぎる。まるで病的だ。これは一体どういうことなのだ? そして聞こえた。一瞬だけ全ての雑音を押しのけて。まるで空が雷鳴の轟音のお詫びに、一瞬の静寂を投げかけてきたかのように奇跡的に。女性の唇が動く。そのヘアースタイルのせいで表情はよく見えない。形の良い唇が動いた。唇の動きだけが先行するかのように、声が僕へと、僕の脳へと届くのはずいぶんの後のように感じた。
 女性は言った。
 みっこは言い放った。

「……もう一度、あの日の悪魔に会いたい」

 ああ――
 あああ――
 ――戻ってきている。
 やはり。神様はやはり僕を憎んでいる。あの日の僕を憎んでいる。戻ってきているのになぜ? なぜ? なぜ? 何でだ? 何でだ! 何でなんだよ! 神様に救いがあるなら、僕の間違いを教えて欲しい。僕は何が間違っていた? 僕の何が悪い? ただ純粋だったのだ。いや、違う。きっと誰だってそうする。あの日? みっこの言うあの日とはいつの話だろう。あの日の記憶が完全に戻ってきているのか? いや違う。まだ完全には戻ってきてはいないだろう。あの日は最後なのだから。どこから戻るにせよ、あの日は最後になるだろう。それでなければ成立しない。それならばもっと昔の話か? みっこの頃の。だが、それは消えていないはずだ。なぜ今さら? 必要になった?
 雷に打たれたように、僕は呆然としていた。
 みっこが折りたたみの携帯をパタンと閉じて、ポケットに入れた。
 こちらを見た。
「……サクちゃん?」
 驚いて、それから少し笑う。
 ああ、昔、公民館で見た笑顔に近い。戻ってきている。今の白いみっこと、昔のみっこが僕に向ける笑顔がぶれる。涙を流しそうだった。しかし、戻ってきていない。まだ遠い。
 あの日は重いから。
「うん」
 僕は、それだけ答えた。

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三日目:サク編 09話

 もう会うことはないと思っていた。
 むしろ会ってはいけないと考えていた。会うならば、もう少し後、みっこから僕に会いに来てくれるまで僕は待つべきだと考えていた。図書室での一件以来、僕は確信していたことがある。それはみっこの表情。僕に向ける笑顔。感情。それらの機微を大切に抱えている昔の記憶から引き出して比べてみた。そして昔のみっこと、今のみっこが抱いている感情がセロファンの重ね合わせのようにオーバーラップしてきたことを感じていた。
 戻ってきている。
 やっとだ。僕の自己満足の結果が出る。別々の高校に行き、そして大学を選ぶ時、僕はみっこを意識しなかった。本当は離れない方が良い。死に物狂いで勉強したって、みっこの周りにいた方が良い。もし今の状況になった時、みっこの近くにいた方が良い。実際、あの日からの中学生活の中ではそう思っていた。実際少しの期間勉強に命をかけた。すこしでもみっこの近くに行けるように。みっこと同じ高校を選べるように。でも、数ヶ月経っただけで、分かってしまったのだ。
 悪魔の力は、完全だ。
 僕は抗えない溝の中に埋没して、自分の進路に迷った。たぶん、僕は自己満足だったのだと察した。でも借りは返そう。そう考えて惰性で生きてきた。借りは返そう。そんなの言い訳だ。もしかしたら、もしかしたら。もしかしたら遠い未来で。再会することがあれば、遠く離れた先でみっこ自身が僕との再会を望むようなことがあれば、自己満足も救われることがあるのではないかと心の底では考えていたのだ。だからこそ計らずもみっこと大学で再会して、期待を裏切られたように感じたのではないだろうか。彼氏と楽しそうに歩いているみっこを見て。もう戻らない変化を見て。
 約束はいつ叶えられる?
 そんな機会はきっとない。
「サクちゃん、久しぶりね」
 雨が邪魔するので、みっこの語調は少し強い。
 その意図があろうとなかろうと、まるで空元気のようだった。
「そう、だっけ。この前図書室で会ったばっかりだと思うけど」
「そうだっけ?」
 みっこが少し笑う。でも悲しさを瞳の奥にこすり付けてしまったような、寂しい笑い方だ。
「でも、何だか凄く懐かしい気がするの。最近色んなことを思い出すのよ。特に中学生くらいから前のこと。だから、何だかサクちゃん、凄く懐かしい。高校バラバラだったのに、大学で再会するなんて凄いわよね」
 はは、と僕は笑った。鼻の付け根がツンとして、僕は雨を拭うふりをして鼻を押さえた。
「僕も驚いた。みっこ、全然変わっちゃってるんだもん。何かあったの?」
「んー、色々ね」
 僕は少し笑って、待った。
 みっこが続きを話してくれるのを待った。もし、昔のみっこがオーバーラップしているのなら、こうして待っていれば、みっこは必ず話してくれる。僕が真剣だと分かれば、そんな煙に巻くような言葉で僕の疑問に答えたりしない。そんな演技を僕の前でしない。そう信じた。昔のみっこを感じられると、僕は信じた。みっこが僕の目を見ている。僕の真意を推し量っているようだった。
「……私」
「うん」
「昔病気だったって、話したことあったっけ」
 少し間を置いて、自信のないようにみっこが尋ねる。
「あるよ。嘘だと思ってた」
 僕は答えた。
 修学旅行の計画を立てるとき、清水寺の音羽の滝でみっこは何を飲むかという話題になった。今思えばとても幼稚で、そして歯がゆいやり取りだった。僕はそこで「恋愛」を選んで欲しかった。僕との恋愛が結実して欲しいとみっこが考えていれば嬉しいと思った。僕との恋愛なんて、勝手に僕が考えた妄想だ。結実なんて馬鹿らしい。そして、みっこは「健康かな」と言った。そして「病弱だったから」と言った。その頃のみっこは元気一杯でとても信じられなかったけど。その頃? では今は?
「その影響なの」
「え、今さら? だって、治せたって……」
 電気が生まれる。
 神経を伝達する。一瞬で伝播する。考えた。なぜ昔の話をみっこは今始める?
 その頃? では今は? みっこの姿を正面から見た。薄暗い中でも、その白さは際立っている。病弱。病弱。病弱。電流に動かされて心臓が一度だけ、全身に血液を強く運んだ。それから沈黙する。血液の全てが雨と同じように地面に落ちていく。嘘だ。嘘だろう。雨の音がやけによく聞こえた。それが自分の中から聞こえているような気がした。この結論に達する前に、抱く感情は何だろう。怖れだ。そこから先を考えたくない。でも思考は持続する。悪魔。完全に欠落させるのは悪魔だけだ。なぜ悪魔は現れた? いつ現れた? 思考は持続する。もう治せたから。みっこはそう言った。治せたから? 何だそれ。治ったでもなく、治したでもない。病気が治るのは、そんな可能不可能の問題なのか。過ちを犯した。まさか。僕は。こんな結論なんて残酷だ。あんまりだ。僕はそんなつもりだったんじゃない。図書室でみっこは分厚い本を読んでいた。何を読んでいた? アルビノ? まさか病弱? まさか。そんなことがありうるのか? ありうる。あいつなら、ありうる。
 悪魔の力は、完全だ。
 ――僕は過ちを犯した!
 時を止めるように空が光った。
 なぜ、この考えに至らなかった?
 あの頃からは、予想も出来なかったからだ。あの頃のみっこからでは予想できようはずがない。僕は今まで何をしていた? やはり自己満足だけだった。僕は自分の欲望を叶えるために、みっこを苦しめ始めているのではないか? 自分の欲望。それだけ。まさに悪魔と契約する人間としては打ってつけじゃないか。一歩よろめく。視界が歪んだ。
「そんな……そんなことって……!」
「サクちゃん? サクちゃん、どうしたの? 大丈夫!?」
 僕は一体何のために、ここまで来た?
 心のどこかで、みっこを救うと思ってた。離れていてもみっこの切れ端を少し救うと思ってた。違う。真実は違った。結局自己満足だけだった。
 僕は僕を救いたいだけだった。
 凄まじい音が、天を割って僕に降って来た。
 先ほどよりも近い。僕の近くに近い。
 いや、もう雷に打たれてしまった方が楽になれる。
「それって……昔の病気が……、再発したってこと?」
「誰にも言わないで」
 みっこは目を伏せた。
 その返事が意味するものは、イエス。
 イエス。
 否定と肯定。あいつは否定と肯定をはっきりする。隠すことはあまりないように思う。必要なければ話さない。それだけだ。人を馬鹿にする。人のことを愚かだと思っている。こんなに一生懸命になってみたって、達観したような顔をして人を馬鹿にする。人の成す事全てが間違っているような顔をする。その上で、その間違いを利用して食事する。なぜ今になって再発したのか。
 僕が、悪魔とその契約したから。
 残酷だ。手に入れようとしたものは手に入らず、しかも形を変えた。
 口を開いた。言葉が出てくる前から喉が震えた。
 まだ涙が出ていないのが上出来だった。
「……くるしい?」
「……サクちゃん? サクちゃん、ごめんね。話さなきゃ良かった。サクちゃん、優しいもん。サクちゃんのせいじゃないのよ。私が悪いの。大丈夫、苦しくもないよ。今までと変わらないの」
 僕は首を振るった。違う。違うんだ。優しいのはみっこなのだ。何も知らない。僕のために何も知らない。それなのに僕に気を使ってくれる。僕のせいなんだ、と叫びたかった。神様は僕を憎んでいる。きっと懺悔を望んでいるのだ。いまさら。いまさら、何て言えばいいんだ。苦しくもない病気なんてあるものか。苦しくないのなら、先にきっと何かがある。それをみっこは言わないだけだ。
「それにね、私、決めたの」
「……何を」
「昔の体に戻った方が、きっとアクセプトは容易なの」
「え?」
「変化は悪いことなのかな」
 アクセプト? どういう意味だ? 僕には意味が分からない。大学の授業? いや違う。昔の体に関係がある。僕は知らない。まだ僕が知らないことがある。みっこの周りにあるものは、当然僕だけではない。みっこは人に囲まれている。昔からそうだ。そしてきっと悪魔だけではない。みっこはまだ何かに関わっている。変化は悪いことか? 僕がみっこを独占した気になって優越感に浸っている時代は、とっくに終わっている。それを変化として、それは悪いか。悪いことではない。
 僕が愚かなだけだ。
「悪いことじゃないよ。みっこ。変化は人が追いつけないほど、早いだけなんだ」
 噛みしめるように言った。
「昔、なんて区切りは本当はなかったんだよ。本当は全部が昔だった。流れの中でみっこは出来たはずだった。今のみっこは過去の集大成のはずだった。でも僕が奪ったんだ。もしかしたらみっこ自身の望みなのかもしれない。区切りをつけてしまったんだ」
「え?」
「僕にもよく分からない」
 僕は笑った。
「サクちゃん……。もうすぐ私のライブがあるの。見に来てくれる?」
「うん、大学の掲示板で見たよ。ギター上手くなったんだね」
 瞬間、みっこが頭を押さえて少しうつむいた。僕はみっこがなぜそうしたか分かった。思い出そうとしているのだ。そして、思い出せないに違いない。少しの頭痛があるのだ。あるべき場所に、記憶がなくなっているから。
「上手く……なった。そう、少しね。ライブ開けるくらいには」
「凄いね。うん、少し行くと思う」
「ありがとう。約束よ」
 約束。
 その言葉が僕の中で虚しく木霊した。無性に寂しかった。二つ目の約束。それは一つ目の約束に上書きされた。僕にとって大事だったのは、一つ目の約束だった。記憶はやり直しが利くのか? やり直しが利くなら、なんてチープなものなんだ。そうだ。そんなことなのだ。僕らが行っているのは、チープなゲームではない。何かを失う代わりに、何かを得る。失った何かを得る代わりに、何かを失う。初めはプラスマイナス零だったものが、どうしてマイナスに傾いてしまったのだろう。
「私、行くね」傘を広げながら、みっこが僕を見る。
 また空が光る。
 雷は止まない。
「気をつけて」
 うん、とみっこは答えて駆け出す。どうせ濡れてしまうなら、その方が賢明だろう。早く帰った方がいい。
 僕はどうしたらいいのだろう。どうするべきなのだろう。このまま続けて、果たしてみっこはどうなる? みっこを苦しめることが僕の目的か? 違う。みっこを救うことが目的だった。それが自己満足だとしても、それこそが僕の目的のはずだった。それなのにどうだ。今は苦しめているんじゃないのか。みっこだって健康体の方が良かったに決まっている。昔の体。
 昔の体の方が――
 みっこは何をしようとしている?分からない。
 でも、みっこを救う。望みを汲み取ってあげたい。
 そもそもみっこの病気は何なんだ?
 アクセプト?
「みっこ!」
 僕は叫んだ。コンビニの駐車場でみっこが立ち止まって振り返る。
「みっこ! 僕は変わってしまった!?」
 みっこのパーマに雨が滴っている。
 それを振り払うようにみっこは首を振った。
「ううん、サクちゃんはサクちゃんだった!」
 ああ――。
 その笑顔。
 僕は勘違いを重ねて生きてきただけかもしれない。
 でも、僕は今救われた。今なら、僕はそれで世界に絶えない戦争まで許せる。
 みっこを救うことが目的だった。そう勘違いして生きていく。
 僕は、黙って彼女に手を振った。別れの合図だ。
 みっこも手を前に突き出して振って、そしてまた走り去った。
「ありがとう」
 誰にともなく、呟く。
 雷鳴が代わりに答えるように轟いた。
 それは何か恐ろしい存在と会話を交わすようだった。
 でもそんなの何も怖くない。
 みっこ。
「全部、自然な形に戻してあげる」
 そして、お別れだ。

書┃籍┃化┃第┃一┃弾┃♪┃
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五日目:サク編 10話

 漫然と世界は流れていく。
 人にはきっと、人生の中できっと一度だけ、全てを得たような気分になることがあって、それでいい気になっていると、あとの人生では風船が萎んでいくように得たものを失っていくように出来ている。徐々にだが確実に、そして淡々と。こうして暗闇の部屋に座っている時でさえ。風船に穴を開けたのは誰だったか? 僕なのか、みく子なのか、悪魔なのか。それとも、単なる時間の経過だったのか。もしそうならば時間は結果的に何も育てない。人は若さを失い、記憶を失い、そして命を失って終わる。時間は結果的に何も育てない。一を無限で割ると――零。
 床に放り投げられたバックの口から、小さく折りたたまれた紙のようなものがこぼれていた。何だろう。体を少しだけ傾けて拾ってみる。薄闇の中で見ると、それは思いもがけないものだった。鮮やかな花畑がプリントされている袋。コスモスの種だった。中味はもうない。なぜこんなものが僕のバックの中に入っているのだろう。しかも中味のない、ただのゴミが。もちろん中に入れた記憶はない。記憶がない。だが、自分で入れた他にない。そう言えば、この前、大学の正門近くで何を悪魔に受け渡したのだろう。少し考えてみたが分かるわけがない。このコスモスの種の空袋が関係しているのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。自分の記憶は既に連続性を欠いていて、こうして時々現れる過去の片鱗の何が、失った記憶とリンクしているのか自信が持てない。自分がこうしたのではないか、という推理を組み立てることは出来るし、それは合っている時もあるようだ。でも、記憶を取り戻せることは絶対になくて、その推理は過去の自分を推し量って試すようで虚しくなる。
 ――お前が望んだことだ。
 記憶を取り戻せることは絶対にない。そしてそれは全て、過去の自分が望んだことだ。失った記憶にどれほどの価値があったのか、失ってしまってからではいつも分からない。それを選んだ自分を信じるしかない。コスモスの空袋をまたバッグの方へ思いっきり投げ捨てた。
 絶対に戻ることのないはずの記憶を戻す唯一例外的な方法。僕はそれが正しいと信じていた。でもそれは本当に正しいことだったのだろうか。漫然と世界は僕を乗せて流れていく。僕が求めたものは、そんな大それたものだったのだろうか。そんな悪いものだったのだろうか。歯を食いしばって、自分のしたことの愚かさを悔やまねばならないほどのことだったのだろうか。いや、そんなことはないはずだ。青春の一時期の、些細な、ほんの些細なことを取り戻そうとしただけなのに。
 僕は間違いを犯した。
 みっこに確かめなかった一つの仮説がある。おそらくは間違いのないだろう仮説。ぎりっと歯を噛んだ。僕のせいだ。みっこの白化は別にイメージチェンジなんかではない。もしも、もしもそういう病気、みたいなものがあったなら? アルビノ、とみっこは調べていた。でもアルビノとは少し違う気がする。あれから僕も少し調べた。たぶん、それに近いが、それではない。それだけではない、のかもしれない。もしかしたら僕の影響もあって、加速度的に症状が速まっているのかもしれない。
 みっこは昔、病気だった。それはみっこの口から聞いた。いつの話だ? 僕と出会って毎日を二人で笑っていた頃ではない。中学の頃は既に病弱だったと過去形で言った。もう治せた、と。だからそれよりも前ということになる。アルビノは遺伝に関する病気だ。それに近いならば、恐らくは、生まれつき。生まれつきの病気を、中学までに長い時間をかけて治したのだろうか。それもありうる。中学まで、僕と出会うまでに自力で治した。しかし、どうやって? 果たして遺伝に根深く関係するアルビノが、みっこの髪をオレンジ色に見せるまでに改善されることはありうるのだろうか。
 考えられる方法が一つだけある。
 悪魔と出会い、それを願うこと。
 呼びかけるのも忌々しい。
「いるんだろう――!」
 酷く低い声が僕の口から出た。後ろを振り向く。僕の部屋からはドアを開けていると玄関までが一直線に見える。だが、今はドアが開いているが玄関は見えない。闇が深いのだ。まるでの空間だけ黒いスポットライトが向けられているように、部屋とは闇の深度が違う。そして黒いヘドロから生まれるように、ぬっと長い手が出てきた。それが開きっぱなしの部屋のドアを掴む。その手が曲がると、引き上げられるように長身痩躯の体が現れた。
「いる」
「なぜ言わなかった!」
 僕は相手の顔を見た瞬間に、天井から引っ張られるマリオネットみたいにビンと立ち上がった。悪魔が見ようによっては哀しそうな目をして、僕を見下ろした。その釣りあわない拮抗状態が数秒過ぎる。これほど憎しみを込めて誰かを睨んだことはないだろう。悪魔がふかぶかと溜め息をついた。
「やれやれ。話が見えん」
「嘘をつくな! お前はっ……!」
 瞬間、悪魔が僕の首を片手で厳しく掴む。そのせいで一瞬息が止まった。悪魔の目が暗い光を灯して、僕を見下ろした。そして陽炎の向こう側で笑うような、歪んだ笑みを見せる。そして言った。軽い口調だったが、酷く高圧的な声だった。
「調子に乗るなよ。翼も持たない無力なヒトが。話が見えん、と言ったのは真実だ。まったく話が見えん」
 僕は左手を横に払うようにして、僕の首を掴む悪魔の右腕を払おうとした。左手が堅いものにぶつかった感触があって、止まる。悪魔の腕はピクリとも動かない。数秒後、悪魔が自分で僕の首から手を離した。離された反動で後ろに少しだけよろめく。
「そんなわけないだろう……。お前は、僕の全てを見ているはずだ」
「そうだ。その通り。全てを見ている。だが、解せん」
「何が!」
「無能め。理解力に乏しいな。分からないのか。いや、少しなら感じただろう。もっと喜べ、と言っているのだ。涙を流して歓喜すればいい。感謝されこそすれ、この俺がそんな目を向けられるいわれはない」
「喜ぶ? どうしてこれが喜べる! 一体どういう……」
「お前の願いは叶ってきている、という意味だ」
 僕は止まった。思考さえ。
 くくく、と悪魔が醜く笑う。
「どうだ、どんな気持ちだ。他人の願い押しのけ、自分の願いを叶えるその感触。その感激に打ち震えて夜も眠れぬ人間が今までに何人もいたぞ。お前はどうだ。その類の人間ではないのか。何しろ、願いが願いだ。人の感情を左右するのだからな」
「……僕は、そんなつもりじゃなかった」
「もう遅い」
「ただ、お前が、奪ったから……」
「それは違う。愚か者め」
「何が違う! みっこの病気を治したのは、お前だろう! なぜ……何で言ってくれなかったんだ。何で! みっこの記憶が戻ったら、みっこの願いも失われると!」
「聞かれなかったからだ」
 瞬間、思考が飛んだ。それなのに、自分の行動を冷静に観察することが出来た。僕は右手を振りかぶった。左手で悪魔の襟首を掴む。自分がこんな行動に出れるなんて思ってもみなかった。拳を力いっぱい握る。筋力の限界を感じるくらい握る。僕は何を握っているのだろう。ただの自分のエゴかもしれない。みっこのためだ、なんて馬鹿馬鹿しい。最初っから、自分だけのエゴだった。拳が痛い。
 痛い。拳の中に握っているものが分かった。僕のエゴを包む、命だ。
 生き残った命なのだ。
 悪魔が笑っている。僕に殴られたって、何も感じないのだろう。
「うっ……うう……」
 僕は右手を振り上げたまま涙を流した。悪魔が自分の襟首を掴んでいる僕の左手を、まるで埃を払うようにパッと触った。それだけで、僕の腕が悪魔の襟首から吹き飛ばされる。悪魔が僕の額を、人差し指でコツコツと叩いた。
「サク。奪ったのは、お前だ」
「……名前を」
 呼ばれたくない。呼びたくもない。力なく腕を落とす。単純に馴れ合いたくないということが大きいが、名前を呼び合ってしまったら、共犯者のような気がしてしまっていた。だから僕は悪魔を一種の機械のように思いたかった。思いたかっただけで、それは何の意味もない。それからして僕のエゴなのだ。僕は立派に共犯者だった。いや、逆だ。僕が主犯だった。悪魔は僕を機械のようにして使い、記憶を手に入れていただけだ。悪魔が踵を返して、玄関の闇へ溶けていく。僕はそれを呆然と見ていた。墨を溶かした水槽に、物を沈めるみたいに悪魔の姿は消えていく。
「再び、俺の名が呼ばれる日は近そうだな」
 後には、気分の悪い嘲笑だけが残った。
 涙が止め処なく溢れた。
 ああ、みっこのライブが近づいているな、と思った。

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