ロシュ編
蜜編
サク編
蓮火編
アリエス編
黒編
しのめん編
奏湖編
ちこ編
志津編
タイキ編
ゆん編
なつめ編
卵茶編
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
■ロシュ
みく子の元カレ。
二枚目、頭脳明晰、スポーツ万能で浮気者。
みく子と別れてエリカと付き合いながらも、みく子に未練がある人。
■蜜
みく子の現彼氏。
みく子のアバンギャルドなパーマを見て怒った。
世界を救いたいと思ってる人。
■サク
みく子の初恋の人。
みく子のことだけを考えながらも、人生に絶望してる。
悪魔と契約なんかしちゃってる人。
■蓮火
みく子の知り合い。
路上ライブで知り合い、アバンギャルドなパーマを見て
「とりあえず、そのパーマだけは直せよ!」と路上で叫ぶ人。
■アリエス
みく子と同じ研究室の学生。
先輩には卵茶もいる。
教授にいろんな意味で愛されてる人。
■黒
みく子のチャット友達。
るどんとビリヤードしたりもする。
みく子と実際に会ったことはない人。
■しのめん
みく子の友達。
どう見ても二児以上の父親としか思えない老けた大学生。
色の識別が出来ない人。
■奏湖
みく子の元後輩。
大通りにある24時間営業のマックス・ドックスの元気な店員さん。
みく子のライブポスターをそこら中に貼りつけた人。
■ちこ
みく子のストリート友達。
みく子と同じようにストリートで歌ってる。
昼は喫茶店、夜はダイニングバーじゅごんで働いている人。
■志津
みく子の友達。
「ふろーら・しょうだ」でバイトしてる。
落研で「るど」と漫才コンビを組んでる人。
■タイキ
蓮火の兄。
タクシードライバーをしている。
弟の蓮火のことをいつも考えてる人。
■ゆん
みく子の友達。
普段はたまにメールでやりとりしてる。
みく子のライブのポスターを作った人。
■なつめ
みく子の高校の同級生。
高校時代はみく子の生演奏を聴いたりしてた。
現在は立派に社会人をしている人。
■卵茶
みく子のゼミの先輩。
みく子とはよくメールをする仲。
後輩にはアリエスもいるがどちらからも先輩扱いを受けていない人。
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六日目:サク編 11話

 薄々、思っていた。
 出来すぎているな、と思っていた。みっこは何をしようとしている? 分からない。それを叶えて上げたいけれど、それは分からなくて当然だ。人の願いなんて分からない。それを叶えるにも、方法が方法なだけにみっこ自身とは避けなくはならない。みっこは悪魔を知っているが、悪魔が現在僕に憑いているということはたぶん知らない。もしそのことを知ったら? みっこは自分の願いを再び叶えようとするだろうか。分からない。でも、そうなりそうな気がした。膨大な記憶をみっこは使ってしまいそうな気がした。そしてもし、僕に悪魔が憑いていることをみっこが知ったら、僕はそのことについて、みっこに話さなくてはならない。なぜ悪魔が僕に憑いているのか。そのことについてみっこに話さなくてはならない。それはたぶん、僕よりもみっこを深く傷つける。それは必ず避けなくてはならない。
 一晩、じっと座ったままだった。
 静かに考えていた。
 朝が来た。昨日とは打って変わって晴天のようだ。カーテンの隙間にさえ空の色が落ちてくるかのような光が見える。僕はそれをじっと見ていた。カーテンのスリットを通る光の筋が徐々に方向を変え、そして力が強くなる。やがて部屋が柔らかな光に包まれた時、僕はひっそりと立ち上がった。大学へ行く準備をする。と言っても、別に用意するものなどない。形を取り繕う習慣だけは出来ていたから、デイバッグを手に引っ掛ける。その時カサカサと虚しげな音を立てて落ちるものがあった。無意識的に手にとって見ると、コスモスの空袋だった。何となくバッグの口を開けて放り投げた。中味がほぼ伽藍堂のバッグの中に素直に入り込む。
 自分を削る覚悟は既に固めていた。あの時よりも純粋に。静かな朝だった。一人で、今度こそ正解を選び取らなくてはならない。あらゆる情報が仮説の域を出ない。幸い、考える時間はまだあった。ライブが近い。おそらく、その時までに考える時間はある。仮説を考えてみる価値はある。方向性を考えなくてはならない。まず第一に、みっこは病気だった。生まれつきだ。その後、悪魔と出会い、自分の記憶を受け渡す代わりに治療を施した。この時点で、みっこは病気を受け入れていない。自ら治したのだから。そして僕と出会う。この時にはほとんど病気は治っていた。悪魔め。そんなことまで出来るのか。僕と出会った時点で、みっこの髪はオレンジ色だったと思う。そして僕によってみっこの願いが無効化されつつある。だからみっこの白化が再び始まった。
 ――昔の体に戻った方が、きっとアクセプトは容易なの。
 気になるのは、その言葉だ。アクセプト? 聞いたことがない。病気の治療の一環だろうか。いや違う。それなら「昔の体に戻った方が」なんてことは言わないだろう。白化に対する考え方が違ってきている? そもそも、みっこの白化とは何だろう。昔の体。昔の体というのだから、みっこには自覚症状があった。それなら幼児のころ、とまではいかない昔の話なんじゃないだろうか。つまり、僕と出会う少し前までみっこは「昔の体」だった。僕と出会った以前のこと。それはさすがに分からない。
 そして少し、ひっかかる。
 なぜ、僕はみっこと「中学で」出会った?
 僕の行っていた小学校も中学校も私立というわけではない。全国に点在するよくある公立だ。そして規模は決して大きくはない小学校だったから、ほとんどの生徒が同地区の中学校に進む。通学の距離の関係、引っ越しの関係で例外はいるけど多くはない。だから同学年のクラスメイトは、ほとんど小学校から顔を知っていた。みっこがあまりに人懐っこい性格だから、気にかけたこともなかった。みっこと仲良くなったのは中学に入学してしばらく経ってからだったから気付かなかった。ずっと一緒の気がしていた。でも違う。みっことは小学校まで一緒じゃない。
 疑念がざらつく。
 みっこはどこから来たのか?
 昔の体。
 白化。
 アクセプト。
 そして悪魔。
 それらが、みっこの望みと関係がある。
 分からない。
 昔のことを考えるのが苦しくなっていっている。もう自分が「知らない」のか、それとも「忘れてしまった」のか分からない。悲しいくらいに、分からないのだ。ただ確信がもてることは、「忘れてはいけないこと」を自分が差し出していないということだけだ。それだけが僕の思い出だった。それだけが僕だった。僕を形作っている記憶の中で、正しいものは、僕の部分だと言えるのは、たぶんそれだけだ。僕は自分という枠がない。星のように点在した記憶を結んで、辛うじてつながっているだけだ。自分がひどくあやふやな存在になっていることを痛烈に思った。「忘れてはいけないこと」はどれくらいあっただろう。果たして、それは僕という存在を形作るだけの張力を持ってくれているのだろうか。
 僕は必死になって考えと思い出を寄せ集めた。僕の思い出のウェイトは、ほとんど中学以前で占められる。大学生にもなって、それだけ偏っているのは情けないことなのだろうか。それでも人はいつも過去に生きている。今、なんてものは存在しない。十年前の記憶、一年前の記憶、一時間前の記憶、一分前の記憶、一秒前の記憶、そして一瞬前の記憶をなぞることによって、「今」が存在する。
 僕はそれが定かではない。僕には形がないのだ。
 いつからこんな歪になってしまったのだろう。
 ――再び、俺の名が呼ばれる――
 ――俺の名が。
 ざら。
 ざらざらざら。
 ざらつく。
 再び?
 これは、何だ。先ほどの悪魔の言葉がやけにざらつく。
 これを何と自分に説明すればいいのだろう。
 ――再び――
 そうだ、強いて言えば。
 再びというのは何度目だったろうか。いや、一度だけだ。僕があいつの名前を呼んだのは初めの一度目の契約の時だけだ。つまり大きな契約は一度だけということだ。それに付随する、あるいはあの悪魔の自尊心が許す限りの小規模な契約ならば、あの悪魔の名はいらない。だから初めの一度だけのはず。僕にあの悪魔が憑いた初回のみのはず。それはそうだ。僕はそれは気をつけている。
 あいつの名前を呼ばないように気をつけている。
 ざら。
 でも、そうだ、強いて言えば。
 この疑念は――
 ざらざらざらざらざら。

 決して思い出せないという、迫るような、あの諦めに似ている。

 薄々、気づいていた。でも、思い至って愕然とした。もうすぐ、僕の願いが叶う。悪魔がそう言っていた。みっことの中学校生活。そして別れての高校。大学。図書室での再会。みっこのライブ。客観的に見て、僕が知らなかったことを抜きにすれば、上手くいっているのだ。上手く行き過ぎているのだ。ただ漫然と記憶を受け渡して、こうにも上手くいくだろうか。それはないんじゃないだろうか。頭脳レベルによって高校で別れた同級生と、大学で再会する可能性はどれくらいだ? まるで操作されているかのような、何かのシナリオのようだ。誰のシナリオだ?
 絶対に思い出せない。
 もう一つの隠された契約があるのだ。
 昔の体。
 白化。
 アクセプト。
 そして悪魔。
 もし、悪魔に頼らなかったら? 悪魔がいなかったら? みっこは「昔の体」のままだった。「アクセプトは容易」だった。「変化は悪いことなのかな?」変化? 僕は過ちを犯した。変化? 変化とはみっこの「白化」のこと? それともみっこの「オレンジ」のこと? 変化とは? じゃあ、元々何が存在したっていうんだ? 僕の中に。僕は愚かだ。昔にすがり付くばかりで、夢見るばかりで。戻ってきている。戻ってきていても、こんなものは受け入れられない。「イエス」そうだ。もう、僕は、変化している。僕もこの年数分だけ、変化している。昔のものを、受け入れるだけの形が崩れてしまっているのだ。アクセプトが、出来ない。
 淡々と僕は思った。
 洗面台で鏡を見た。
 やけにすっきりとした顔だと思った。
 まるで棺桶の中に入っているみたいな顔をしている。
 もう、昔の僕が願ったことは、今の僕は願えないのだ。
 目を閉じて、頭をうなだれた。
 頭が鏡にぶつかって、床を這うような鈍い音が響いた。
 みっこ――

 ――いつか、歌、聞かせてあげるね。

 その声が。
 その声が静かに頭に響く。
 そのことだけが。
 その約束だけが。
 未だに、僕を、僕たらしめる。
 そうだ、あの頃から。
 涙を流せる思い出のために、僕は生きてきた。
 それで良かった。
 みっこと出会えて良かった。
 玄関を開ける。
「お前は……お前は、その力で人を救ったことがあるか?」
 部屋の奥の方に微かに残った薄闇が、拡散する光に揺れた。
 その揺らぎは、人の喉を見るかのようで、まるで、嘲笑だった。

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六日目:サク編 12話

 ゆっくり、ゆっくりと、僕は変更されていく。
 ゆっくり、ゆっくりと、時間が経つ。
 僕には事実が何か確認する方法がない。
 今は何日目だったろうか。分からない。正直な話、僕には分からない。何をしてから何日目? 何を始めてから何日目? というか、何話目? 何話目? 何話ってどういう単位? 分からない。いつからか随分と過ぎてしまった気がするし、時間通りにやってきた気もする。僕はどこに行こうとしている? 何かを思い出せない。いや、思い出せることはある。正しいことを思い出せない。正確じゃないことなら思い出せる。図書室でのみっこ。コンビニでのみっこ。中学生の時のみっこ。修学旅行の時のみっこ。僕の記憶で正しいのはどれ? そもそも記憶が正しくないことなんか証明が出来ない。そして正しいことも証明出来ない。記憶にあるものは、既にないのだから。どんなに同じに見えて、現在まで連続してきたものだとしても、時間が同じでない限り、同じものは何一つもない。そしてそれは人にも言えて、昔欲しかったものが今更手に入ったところで、自分が変わってしまっているから、それは欲しかったものとは違って見える。だから、本当に守りたかったものは、その時間でなければ守れない。
 時間を戻すことは可能だろうか、と僕は考えた。
 悪魔。完全な力。時間を戻せるならば、全て解決が出来るんじゃないだろうか。でも。でもそれはどうだろう。もしA地点からB地点まで生きて、その間の記憶と引き換えにA地点まで時間を戻してもらう。それは可能だろうか。悪魔との契約は等価でなければならない。それが第一の条件だ。引き起こされる、叶わせることの出来る願いが大きければ大きいだけ、悪魔に受け渡す記憶も増大していく。そして記憶は主に時間の経過によって形作られる。それならば、B地点から、A地点まで時間を戻した時に、もし時間を戻せるのならばだが、悪魔には何を渡すことになる? 時間を戻しているのに、僕のA-B間の記憶は、「あったこと」にしてもらえるのか? 分からない。あいつはアンフェアの塊だが、あいつ自身の中にはルールがあるように思う。「時間を戻す」という願いは、出来るか出来ないかの前に、あいつのルールに背く気がする。
 それに僕は、これ以上、ここまでの道のりを繰り返したくない。
 それならば、同じものは手に入らない。
 ゆっくり、ゆっくりと僕は歩いた。
 色んなことを思い出しながら、歩いた。
 辺りは暗くなっている。
 僕の足は秒針のように、僕を目的地へ運ぶ。僕の頭は、映画みたいに霞がかった映像を流す。何だ、結構覚えてるな、と思った。何だ、悪魔に全部受け渡したつもりで、結構覚えてるな、と思った。少し震えた。覚えているな。覚えている。その思い出自体も偽物かもしれないが、あまり意味のない馬鹿らしい記憶まで残っている。おそらく、馬鹿らしければ馬鹿らしいほど、真実、僕の記憶だろう。僕が歩んできた証だった。僕は、どこにも何も残せていないけれど、僕の中に残っているものは、まだあった。みっことの中学生活とか、半分死んでた高校生活とか。図書室でのみっことの再会がどれほど嬉しかったとか、みっこと肩を並べる男を見て、どれほど苦しんだかとか。記憶は偽物でも、事実は捻じ曲がっていても、僕がそれぞれ感じた感情は偽りだとは思いたくなかった。
 路地裏には、もう人が結構集まっていた。
 いつもみっこは人の中心にいた。そして僕はいつもその輪から離れていた。もちろん僕が他人と馴染めないというのが大きい理由だった。でも、人に囲まれている時、みっこは本当に素晴らしい笑顔を見せてくれる。僕はそれを知っていた。そして僕を見つけると、一瞬だけ、その笑顔を僕だけに向けてくれるのだ。その瞬間が好きだった。みっこはあんなに大勢に囲まれているのに、僕を覚えてくれている。そう思うのが好きだった。それは勘違いだったのかもしれない。でもしっかりと「忘れてはいけないこと」に分類されている笑顔だ。
 僕はいつも通り、人だかりから離れて、近くの壁に寄りかかった。路地裏は広くない。みっこのライブが始まったって、ここなら問題なく聞こえるはずだ。
 これから、みっこのライブが始まる。
 僕の約束が守られる。
 そうしたら――。
 やがて、集まった人がにわかにざわついた。
 初めに見えたのは男だった。あの男は知っている。前、みっこと並んで校内を歩いていたのを知っているから。それとなく見ていたって、僕は記憶している。記憶しているのを思い出して、少し笑ってしまった。なぜ、こんなことを記憶しているんだ。そんな記憶、片っ端からあいつに上げておけば良かった。なぜ「忘れてはいけない」方へ分類されている? みっこがいたからだ。隣にみっこがいたから。
 みっこ。
 見えた。
 人の歓声に応えながら、笑っている。みっこ。やはり、昔のみっこではない。髪型がまず違う。肌の色も違う。一層白くなったかのようだった。アルビノ。いいや、みっこだった。あの笑顔はみっこだった。心臓を焼けた石のように、熱く、重く感じた。血液が端から沸騰した。でも、そこから動くな、と中に重しを置かれたみたいだった。動いたら、なくなってしまうからと言っているようだった。僕は色んなものを無くしてしまったから。みっこ。ここまで、昔に縛られている自分が不憫だった。今でもこんなに苦しい自分が、泣きたくなりそうな自分が、本当に愚か者に思えた。
 でも、この感情をまだ思い出せる。
 僕はまだ、大切にしていたものを守れていた。
 それが、無様に嬉しかった。
 叫んでしまいそうな自分を、必死にたしなめた。
 涙を必死にこらえた。
 だから、動くな。
 今はこれを、大切にしよう。
 みっこはどうなのだろうか。
 気づいてくれているのだろうか。
 みっこは僕のそんな気持ちとは裏腹に、ギターのチューニングを始めた。繊細な指だった。しかも肌が白くなって、酷く脆い動きに見える。でも、みっこは手馴れた手さばきでチューニングを終えた。この中で、たぶん、僕だけがみっこのギターの起点を知っている。あの本を僕が借りた時だ。みっこはそこからギターを練習した。本当に練習をしていたのだ。そして、こんなに人を集められるだけ、ここまで上手くなった。
 みっこの指がチューニングを終える。
 辺りが、吸収性に富んだ静寂に包まれた。これから始まるものを、ひとかけらも逃さないような、そんな貪欲さまで感じる静けさだった。みんなが期待しているのだ。みっこのギターの起点は知らなくても、みっこがどういう歌を奏でるのか、みんなが期待しているのだ。おそらく、何人かは既にみっこの歌を聴いたことがあるのだろう。でも、みんなまるで初めて聴くかのような顔をして、みっこの魅力的な顔に釘付けになっていた。
「集まってくれてありがとう。それじゃあ、今夜の始まりの歌、いきますよ?」
 少しおどけて、みっこが言う。
「1曲目……オレンジ!」
 一瞬――。
 その音。
 その声。
 その一瞬で、僕の中の全てが粉砕された。
 僕は腹を刺されたかのように、胸を撃たれたかのように、首をうなだれた。もうみっこの顔を見続けることも出来ない。ああ――! 僕はずっと聴きたかった。僕はこれをずっと聴きたかったんだ! だから、そう、だからなのだ。だからこそ、僕はここにいるのだ。記憶がなくても、思い出が違っても、僕は理解した。僕はこれを聴くために、ここにいるのだ。何ていう声だ。何ていう歌なんだ。確かにみっこの声だ。でも、体が浮かび上がってしまいそうなほどの威力。みんなの居場所を作り出して、存在を片っ端から認めてくれるような、この絶対的に優しい、何も壊さない強烈な破壊。
 まるで、再生のような!
 僕は雷に打たれ続けるように、歌を聴いた。
 あっという間に二曲が過ぎる。
 一生分の歌を聴いたつもりで、一瞬だった。
 僕は息継ぎをするように、みっこの顔を見た。
 みっこは曲の合間に、みんなに笑顔を振りまいている。
 僕はみっこを、じっと見ていた。
 ギターの用意をする。
 どうやら三曲目に入るようだ。
 次は、どんな曲なのか。
 ずっと終わらなければいい。
 終わらなければいい。
 このライブが終わったら終わったら。
 約束が果たされたなら、僕は行かなくてはならないから。
 みっこは僕がいることを気づいてないと思っていた。でも、そんなことはない。いつだって、みっこは周りの人間に優しいのだ。誰にとっても優しいのだ。だから、周りにどんな人がいるのか、いつも見ているし、知っている。誰にも自然に気遣える。それがみっこなのだ。先ほどの二曲、きっと誰かを思っての歌だ。みっこは、そういう女の子なのだ。
 だから、僕がいたことも、きっと初めから知っている。
 ――ふいに、みっこがこちらを見た。
「あっ……」
 僕は口を開いて、何かを言おうとした。
 でも、何を言うべきなのだろうか。
 まともな言葉なんて出なかった。
 視線が絡まった。
 その笑顔を、僕だけに向けてくれたのだ。僕は息すら止まった。みっこの目を見ているのに、自分が何を見ているのか分からなくなった。なぜ、ここで目線が合うのか分からなかった。ただ、その笑顔を見ていた。どこか、寂しそうな、満面の笑みだった。その一瞬で、僕らは様々な会話をした。僕がなぜここにいるのか、なぜみっこがそこにいるのか。僕は何をしてしまったか。みっこは何をしていたのか。何も分からなかったし、何も聞こえない。でも僕らは互いに許した気がした。そしてお互いに笑った気がした。僕の表情は動かなかっただろう。でも、ここ数年で、一番心が笑った気がした。みっこの目は限りなく優しかった。
 それを見て、僕はなぜか、心臓が冷えていく。
 脈は、しかし加速する。
 悟ってしまったのだ。
 ライブはまだ続く。
 でも、僕には、次で最後だ。
 それが先ほどの視線のメッセージ。
 次の曲はきっと、僕へ――。
 この僕への曲なのだ。
 みっこが口を開いた。
 僕を見て、そして曲名をコールした。
「幼馴染!」

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六日目:サク編 12.5話

ねぇ私の笑顔をまだ覚えてる?

花屋のバイトも慣れてきたんだよ
花と笑顔が絵になるなって褒められた
無理矢理渡される種のおかげで
家の周りにまだよく知らない花が増えた
友達との終わりのない無駄話も予定のうち
ランチの横で今日もレポートを仕上げるの

思い出はいつの間にか消えていくけど
寂しさと悲しさに夢と希望ってあだ名をつけて
流れる時間に逆らって得意顔を振り撒くよ
でもふいの呼び声に見上げた木漏れ日
どうして涙が出そうになるんだろう

ごめんね、君がいない
ただそれだけに気付くこと
なぜこんな時間をかけてしまったのだろう
約束は私と君の軌跡を見失わないように
「さよなら」はまた笑って会う日のために

きっとどこかに種撒いたなら
いつか涙を降らせた心開き
桜の花が季節を外れて輝いて咲く
ちゃんと過ごしてきた日々が
痛いくらい優しく生き続けるよ

きっとどこかで笑ってる
君と同じ世界を生きていく

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六日目:サク編 13話

 僕はみっこのライブを途中で抜け出して、大学の正門にいた。
 もうあれ以上は聞いてはいけない気がした。あそこで僕への歌は完結だ。きっとあれ以上はみっこが僕と別れてからの感情に溢れる歌だ。それを僕が聴いたら、きっと、決心が鈍る。だから僕はそっと背中を預けていた壁から離れると、みっこを中心に囲んだその集団からも離れた。みっこを最後にちらりと見た。みっこはこちらを向かなかった。でも、向いて欲しくなかった。みっこは先に進んでいるべきで、そして、先へ進むべきなのだ。僕はしばらく、みっこを見た。みっこだけを見た。こみ上げてくる感情を、拮抗する感情で辛うじて抑えながら、みっこを見ていた。その視線を外すことがなかなか出来なかった。目玉を潰すような勢いで瞼を閉じて、さっと足を逆に向け、そして努めて無表情で歩いて、大学までやってきた。
 ここが一番、相応しい気がした。
 ここは僕とみっこの再会の場所。
 僕とみっこが再びつながった場所。
 ここより相応しい場所は手近にはないだろう。

 ――終わりを告げるために。

 僕は正門の中に入る。もう辺りは暗くなっているが、大学は言ってしまえば二十四時間営業だから、この程度の時間じゃ全く関係ない。僕は努めて無表情のままだった。大学の正門入口から入ると、そこは桜が十本程度植えられている桜並木だった。今はもちろん咲いてはいないが、奥に見える大学の白い建物を彩るピンクが、なかなか綺麗な道を作る。もちろんそれは周囲の評判であって、感情不足の僕は、そこまで綺麗だと思ったことはない。
「もう――」
 僕は桜並木のほぼ中央で足をピタリと止めた。
 そして、ほとんど一人ごとのように呟く。
「もう、僕はボロボロなんだろう……?」
 やけにはっきりと向こうの建物から足音が聞こえた。建物の入口部分は暗くてよく見えない。そこから、人影がこちらに向かって歩いてくる。一歩一歩確かに、まるでモデルのような長身が歩いてくる。その体からは闇が噴き出しているかのようで、そいつが歩く一歩ごとに周囲の闇が明度を落とす気がした。
 「つまり、」とそいつは、十メートルほど離れた場所から口を開いた。
 よく通る低い声だった。
「クク。笑ってしまうぞ。この俺には、許可と禁止が与えられる。そして許可されたものから、その変換を行う。だがな、愚かにも、許可することを許可した馬鹿がいるのさ。最低限の条件を提示しただけで、食料庫のキーを、この俺に受け渡した馬鹿がいる」
 そいつは僕の目の前に立つと、その高い目線から僕を見下ろした。鈍く闇を反射する黒いブーツ、ルーズに着こなした真っ黒のワイシャツに、真っ黒の皮のズボン、そしてやはり真っ黒の、膝まで届いている細身のコート。その姿には見覚えがあった。あの時、見たものに違いはない。
「その最低限の条件というは、『食べていいもの』と『食べてはいけないもの』が定められていることか?」
 悪魔はそれに応えず、にやにやと笑った。
「お前は、元々、まずまずの記憶力を持っているのだ。その条件に区分して、『食べてはいけないもの』を必死になって覚えているほどの記憶力はな。だが、『食べていいもの』は次々失われる。俺の手によって。お前の願いによって。あるいは自然にな。それが自然消失で、十分な時間があれば、自然と整理されるさ。夢はよく見るか? クククク。しかし、お前はそれが間に合わない。食い散らかしているからな。記憶の空白が次々と起こる。次々とそこに新しい記憶が埋め込まれる。それが繰り返される。連続性はなくなり、時系列は滅茶苦茶になる。記憶の混乱が起こって当たり前だ。だが、俺がそれを許さない。お前は混乱を、混乱と思えない。気が狂うほどの状況で、お前は正常を保たなくてはならない」
 と、悪魔が一呼吸置いた。
「それは、ここまで進んでくるためだった」
 僕は目を閉じた。
「事実、苦労したぞ。そして、願いはほとんど叶っている。自覚しているか? 歓喜してみせろ」
「叶ってなんていない」
 僕は静かに言う。
「ちっとも叶ってなんか、いない。僕が望んだものは、こんなものじゃない。もっと、幸せな解決だった。もっと静かに、笑って、ああ、良かったな、って思えるはずだった。そして僕も次に進めると思った。お前に願ったのは、そういう願いだった。みっこを、周りの人間を巻き込んで、不幸にすることが、僕の望んだものなんかじゃない。でも、お前のせいじゃない。僕が知らなかったから悪かった。お前なんてものに頼ったのが悪かった。お前が何とかしてくれるなんて、考えたのが悪かった」
「その通りだな」
 悪魔は即答する。
「……お前は何者だ? なぜ、みっこに憑いていた? どこから来た? 何をしていた?」
「俺は俺だ。それが俺の流れだったからだ。俺からだ。ずっと俺という存在をしていた」
「お前は、その力で人を救ったことがあるか?」
「貴様らは、この力で人を救いたいと思ったことがあるか?」
 悪魔が毅然と言う。僕は答えなかった。
「俺が愚かなのではない。いつだって、愚かなのは、貴様らなのだよ」
 言いつつ、悪魔が僕の頭に触れる。まるで親が子供の頭を撫でるように。いや、そんな優しいものじゃない。仕草は同じでも、全く違う。これから殺して食べようとする家畜の頭を、最後に勝手に愛しんで、撫でるかのようだった。そうだ、僕は、家畜なのだ。こいつにとっては、きっと。
「俺の名を呼ぶがいい。サク。お前は、そのためにここへ来たのだろう。さぁ、最後に何を願う」
 僕は、歯をきつく噛む。
「――二つある。叶えろ」
「代償による。お前の既にボロボロの記憶が役立つといいがな」
 僕はその嘲りを無視した。
 みっこの歌を聴くまで。つい先ほどまで、僕は違うことを考えていた。だが、みっこの歌が僕へ向けられていると考えた時、分かったのだ。一番大事なことが分かったのだ。
「僕の記憶を修正しろ。大筋でいい。事実に即したものにしろ」
「ふん、まだ生きるつもりか?」
「気づいたんだ。みっこの歌を聴いて。生きるんだ。何があっても。同じ世界で。生きていれば、きっと――」
「全くくだらんな。その人間の楽観的希望。しかし巨大だ。それだけの代償を――」
 それは、と、僕は、悪魔の言葉を遮って答えた。
 僕は正しいか? 分からない。
 でも、生きていく。
 正しくなくても、生きていく。
「みっこへの、恋心」
 悪魔が、一瞬、瞬きだけした。「ほう……」
「それをやる。あの時のことを考えれば、足りるだろ。僕が契約で失った記憶はどれくらいある? そこを事実で埋めろ。僕の記憶じゃなくていい。取り戻さなくてもいい。大筋でいい。混乱を直す程度で構わない。生きていくのに必要な情報を埋めろ」
「膨大だな。そして警戒しているな? 他の契約を。教えてやろう。それでは初めの契約を捨てるものではない。順序というものがある。あの女の記憶は全て戻るが、それでいいのだな?」
「……構わない。今僕に植え付けられている間違っている記憶もやる。だから、まだ釣りがあるはずだ。それで、もう一つの願いも叶えてもらう」
「……いいだろう。お前の湿気た記憶でどこまで行くか。お前如きが、どれほどの質の高い記憶を積んできたのか。面白い。さぁ、クククク、教えてみろ。その味を」
 そして叫んだ。
「呼べ! この俺の名を!」
 悪魔は僕の頭を抑えたままだった。僕は悪魔の目を睨んだ。もう決して、目を逸らさない。負けない。どんなに残酷でも、どんなに苦しくても、僕は僕の望んだことを見届けてやる。

「コルト! 僕の願いを叶えろ!」

 瞬間、ざわっ、と全ての闇が僕に敵意を向けた。それから、全ての闇が目の前の悪魔に平伏した。全ての暗さが地面を這う。悪魔は痺れたように、空を仰ぎ見た。「おおお……」という声と共に、口から何かが零れた。唾液だった。そして悪魔の背が、ビクンと後ろに引っ張られる。僕の頭を掴んだままだったから、僕の頭も引っ張られた。とてつもない力だった。頭が割れそうだった。そして悪魔が狂気染みた焦点の合わない目で、僕を見た。僕はそれを知っていた。悪魔が舌を口外に出した。それは二又に分かれていた。そして僕の頭をまるでボールを持つように両手で持ち変える。
 僕と目が合う。
 何て、残酷な目だ。
 人の大切にしているものを、平気でぶっ壊す目だ。
 でも。でも、もしかしたら僕が願いを叶える過程で、僕だって誰かの大切なものをぶっ壊したかもしれない。それは分からない。こいつの言っているように、愚かなのは僕の方だった。こいつは願いを叶えるだけ。効率的に食事をするだけ。許可と禁止をもらうだけ。そう思えば、どちらが家畜だ? こいつはただの強大な力。それを操っているのは、どちらだ? 一体、どちらが主体なのだ?
「いただくぞ……」
 僕は答えなかった。
 悪魔の姿が変貌する。それは蛇だった。真っ黒な蛇だった。あるいは僕のイメージがそう見えさせているだけなのかもしれない。でも、今まさに僕はとぐろを巻いた真っ黒の蛇に、グルグルと骨を砕かれんばかりに身を縛られ、頭を涎の垂れる口先へ差し出している。これが悪魔。今からエゴを叶えさせようとする強大で暴虐な力。蛇が、その尖った口先からは考えられないくらい、口を開けた。
 そして僕は濁流に呑まれるかのように。
 真っ黒な蛇に丸呑みされた。
 それは確かに濁流だった。僕の記憶が流れる濁流だった。
 悪魔の腹に投影する形で、僕は色んなものを見た。
 それらの多くは、僕がもう一度手に入れたいものだった。
 しかし、手に入らないのだ。
 もう、手に入らないのだ。
 あの頃、過ぎてしまったものは、もう、どんな手を使っても、本当に手に入らないのだ。何かを引き換えに、何かを手に入れたって、それは違うものだ。手に入らないのだ。例え、悪魔と契約しても。たぶん、神様に気に入られても。僕は悟ったように、感じてしまった。みっこが願ったことが今更ながら、本当に今更ながら僕に染み渡った。人の願いが、そうそう叶わない理由が分かった。奇跡がもう起きない理由も分かった。なぜなら、もう奇跡がここにあるから。僕が生きてきたということ自体が、大きな奇跡だから。昔、誰かが願ってくれたのだ。例えば、みっこが。僕の友人が。僕の親が。僕に生きて欲しいと願ってくれたのだ。自分の何かを受け渡してでも、僕に生きて欲しいと願ってくれたのだ。だからこんな奇跡が起きているのだ。僕は何のために生きている? 僕はまだ自分に答えを出せずにいる。でも、僕を生かしてくれている人たちは、もう、僕に答えを出してくれているのだ。僕に生きて欲しいと、言ってくれているのだ。
 一瞬、気がつくと、僕は悪魔に両手で頭を掴まれているままだった。
 僕は、僕の頭を掴む悪魔の腕を、握り潰すぐらいの気持ちで掴んだ。でも悪魔の腕はピクリとも動かない。いや、少しだけ震えている。歓喜に、快感に、震えているのだろう。いいさ。全部、今までのもの、全部上げたっていい。僕は、もう覚悟を決めている。僕は悪魔の目から、目を逸らさなかった。ただ、悪魔の方が正気の顔をしていなかった。狂ったように笑っていた。それが今まで僕が見た中で一番、強靭な様子だったが、一番弱そうにも見えた。僕は目を逸らさなかった。それが僕の、ささやかな復讐だった。
 だって、抜けていく。
 抜けていく。
 ああ、僕から、みっこが抜けていく。
 僕が、今まで一番大切にしていたもの。
 ここまでの、生きる目的そのもの。
 それが、ダムが決壊したかのように。
 雪に埋まる街のように。
 桜が散るかのように。
 抜けていってしまう。
「ああ――。あぁあ……ああ!」
 今まで、今まで本当に、忘れたくなかった。
 忘れたくないことが、本当に多くあった。
 忘れたくないことがあったから。
 僕はここまで。
 それが、涙になって流れた。
 ぼろぼろ落ちた。
 落ちる。
 土に落ちる。
 どこかで見た。
 また、僕の記憶が地面に吸い込まれる。
 僕は、今まで何のために?
 僕はここまで。
 分かっている。
 分かっていたんだ。
 さあ。
「……次で最後の願いだ」
「イエェス」
 悪魔が、地獄の向こう側から世界を笑い飛ばすように吼えた。
「いいぞ。それを……、それを叶えてみせよう! か、かはっ! ははは、はっはっは!」
 心底、面白そうに笑う。
 いつもの冷静さは微塵もなかった。
 僕は、それを見て、微かに笑えた。
「僕は、お前を、心の底から憎んでる」
「はは! いまさら! 遅い! いまさらだ! 名と! 願いを言え! 完全に――!」
「――でも、今、感謝もしてやる」
 そう呟いて、僕は口の端を歪めてやった。
 この願いが叶えられるか? 分からない。
 でも願いは口にすることに意味がある。
 僕の願いは、と、僕は続けた。
 もう意識が遠ざかっていく。
 悪魔の哄笑が響く。
 もう限界だった。
 僕は強く願う。

「コルト。僕は、みっこに、生きていて欲しいんだ」

 人は、誰かが願えば生きていける。
 きっと、生きていける。

 ――さよなら。

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六日目:サク編 14話

 修学旅行当日、空は見事な青色を見せた。
「ほらね! 私、晴れ女なの」
 朝、中学の校門でみっこが僕を待っていてくれて、左手を上げて空を示したかと思うと、開口一番そう言った。右手の肩には不気味なネズミのボストンバッグ。ネズミーだ。一体誰か書けばこれほど邪悪な存在が生まれるのだろう。まるで僕らの旅の行方を暗く暗示するかのような笑みだった。あいや、暫し待たれよ。笑み? あれを笑みと解釈していいんだろうか。口から血が滴ってそうだ。あれを笑みと解釈出来るなら、世界はまだ心の余裕に溢れている。
「ほらねって。みっこあれほど不安がってたじゃん」
 僕はネズミーを横目で見ながら答えた。
「あれはもういいの」
「いいんですか」
「いいの」
 みっこがはしゃぐのも無理はなかった。五月の空は真っ青で、修学旅行の荷物が重くて、駅まで乗せて行ってくれるバスは大きくて、竹島先生だって冗談を言い出すくらいで、そして僕は好きな人の隣にいる。これでわくわくしないなら、中学生活なんて放り投げてしまった方がいい。青春。もし僕が大人になってあの頃は青春だったな、と思い出すのは真っ先にこの辺りだと思う。僕の初恋。そう考えてみてから「初恋は結ばれない」なんてジンクスを思い出した。そんなジンクスを考えたのはきっと少年の心を忘れてしまった大人だ。そんな言葉が無垢な少年少女をどれほど傷つけるか分からないのだ。きっと結ばれなかった初恋をした人間が悪かったのだ。そうだ、そう言えば、僕の叔父さんなんかは高校時代から付き合ってた彼女と結婚したし。まだ中学だけど頑張れば、三年くらいは長く持つだろう。何が。何が持つんだ。
「サクちゃん? ポセリ食べる?」
 バスに座って独り妄想する僕の顔をみっこが下から覗き込んできた。可愛い。オレンジ色の髪が僕の膝の上に垂れて、行儀よく並ぶ。みっこは窓際にいる。本当は順番的に僕が窓際だったのだけれど、みっこが無理矢理僕と交換した。手には電車に乗る前だというのに早くもお菓子を持っていた。さっき朝ごはん食べてきたばかりだけど。ちなみにポセリというのは棒状のスナック菓子で、十五センチくらいの細いクッキー状のスナックにドライフードを一度粉末にしたものをまぶしてある。初めに作られたのがセロリ味なのでポセリという名前が通っているが、現在その存在は三種類確認されていて、残りの二つは、シイタケ味、それにピーマン味だ。どこに売っているのかは知らない。みっこだけがその謎の入手経路を持っている。ちなみに僕はその三種類とも大嫌いだ。パッケージには「嫌いなものもバリバリ食べよう」と商業展開をまるで無視したようなフレーズが書かれている。もしみっこと、その、結ばれるようなことがあったら、その合わない味覚だけは改めてもらわなければならない。あとネズミーか。初恋は結ばれないという言葉がまた脳裏をよぎった。
「ごめん、凄くいらない。知ってるでしょ」
「えへへ、知ってる。パセリ苦手なんだよね」
「あと、シイタケと、ピーマンもね」
 そう言って僕はみっこの携行用バッグを指差した。
「すごーい。何で分かるの」
「みっこ、あのね……。おやつは幾らまでだっけ」
「そんな規則ないよ」
 僕らは笑った。お金は幾ら持ってきたとか、隠し財産はどこに隠してあるのとか。そんな話をした。ちなみに持っていける小遣いは規則で決まってて、五千円だ。それはお土産代、自由時間の昼食代を含めて五千円だ。確かに日常を顧みて中学生が一度に使うお金にしたら多いかもしれないけど、修学旅行ということを考えると全く足りないと思う。今日以前、不真面目な男子の間では小遣いをどれくらい持っていくかが話題になった。それから持ち物チェックがあるらしいという噂も聞いた。何でも先輩の中には靴の中に万札を持っていって見つかった猛者もいたらしい。どこから伝わってきたか分からないけど、そんな噂が紛々と流れていた。それがまた中学男子の心を奮い立たせて、パンツの中に持っていったら見つからないんじゃないか、制服のカラーの後ろに挟んでいけば見つからないんじゃないかという話し合いが持たれた。幾らオーバーするか、どこにスマートに隠していくかが偉い男子中学生のステータスだった。
 実際、現在、実行中の男子がいるのだろう。それを思うと密かに笑えてくる。今のところ、先輩が摘出されたような持ち物検査は行わないみたいだ。
 僕は別に真面目というわけでもないが、規定どおりの五千円を持ってきている。
 父親には「京都の美味い酒を買って来い」と言われてもう五千円秘密裏に渡されそうになったけど、その水面下の行動は事前に察知した母の手によって阻止された。父は不真面目な中学時代を送ってきたに違いないから、中学生の気持ちが分かるのだろう。でも制服姿でどうやって酒を買えって言うんだ。修学旅行のメッカだぞ。
「最近ガソリンも馬鹿にならないよね……」
「え、なに?」
「何でもないよ」
「サクちゃん、独り言多いよね」
 みっこがポセリを一つ摘みながら、僕の鼻先に持ってきた
「いらないってば」
 僕がそれを跳ね除けると、「どうせあげないもん」と笑いながら自分の口に持っていく。
「独り言はさ、きっと寂しい人間が言うんだよ」
「サクちゃん、寂しいの?」
「誰も僕を分かってくれない苦しみっていうか……」
「青春みたいね」
 だって青春だもん、という言葉をみっこの顔を見て僕は飲み込んだ。
 バスで行くのはここまで。新幹線が止まる最寄の駅に辿り着く。「あ、着いた」みっこが慌ててポセリをバッグの中にしまいこんだ。クラスメイトがあらかじめ決められた列になって降りていく。ここまで統制して、将来何の役に立つというのだろう。実際の社会はもっとグチャグチャでドロドロで、そこで役に立つのはきっと予め決めておいたことに従うことではなくて、機転を利かすことなんじゃないかと思うと馬鹿らしくなる。立ち上がって列に加わる。左右の席交互に入っていくので、みっことは少し離れる。
「独り言はさ、本当は独りになんかなりたくなかったと思うけど」
 みっこが立ち上がりながら言った。それこそが独り言みたいだった。
 時々、みっこは自分の哲学を見せる。僕は黙って列に並んだ。
 駅構内の少し手広な場所で生徒全員が一度集まる。全く、どこに行っても集合集合、集会集会だ。この分だと修学旅行全体で何度集まるか分かったもんじゃない。先生達は生徒を集めて、その規則正しく並んだ列を眺めるのが好きなのだ。サディスト。最近知った言葉だが、きっと先生達はサディストばかりなのだろう。竹島先生を見た。欠伸をしていた。全く、あの先生を僕は好きだ。何だか近しいものを感じる。ほとばしるような熱意はない。生徒達に好かれているわけでもない。でも、押し付けがましくない。演技っぽくもない。人間として当然のことを当然に思って当然にやっているように思う。そこが好きだ。もちろんだからあの歳で校長になるわけでもなく、教頭になるわけでもなく、学年を任されるわけでもないのかもしれない。出世しているとは思えない。近しいものを感じて、僕は将来を不安に思った。もしかして大学を途中で辞めたり、フリーターになったりしたりする人生かもしれない。
 少し離れて、学年主任の話へ熱心に耳を傾けているみっこを見た。
 せめて大人になっても余裕のある生活はしたいなぁと思う。
 無駄に長い有りがたい話が終わると、一列ずつ改札口へ向かう。ホームに着くとほぼ同時に新幹線が到着した。五分ほど停車しているようだ。素晴らしいと思うのは、新幹線の到着時間まで計算してあの長い話をしていた学年主任だ。それならばもう十分くらい集合時間を遅らせてもいいのではないかと僕は一人思う。いくつかの車両が僕らの学校で独占された。僕とみっこは別々の車両ではないものの完全に離れてしまって、僕の周りには男子しかいない。座席を一つ向かい合わせるように回して、一人がトランプを出した。ババ抜きをするということで、それぞれに等分ずつカードが配られる。ライバルが僕に向かい合っている。彼の名前は小牧という。今思い出したわけではないけど。野球部だけあって、日に焼けた体を持つスポーツマンタイプ、そして坊主頭。僕のところからはみっこが見えるけれど、小牧からは見えない。もうそういう運からして僕と小牧との間には隔たりがあるのだ、と一人満足げに思って鼻を鳴らした。
 みっこは遠目で見るに、バッグから再びポセリを取り出したようだった。友達三人に薦めたみたいだった。そして一人寂しく、ポセリを口に咥えたところを見ると、全員に断られたみたいだ。凄く、不服そうな顔をしている。
「おい」
 小牧が少し敵意を含んで僕を呼んだ。
「お前の番だ」
 手に持っているカードの束をこちらに突き出す。ゲームの行方を何も見ていなかった。どうやら僕が小牧からカードを引くらしい。扇子のように持たれている小牧のカードは、一枚、わざとらしく抜きやすいように一番隅で飛び出しているものがある。このやろう。これは気が抜けない展開になってきた。僕は考えた。小牧がジョーカーを持っているとして、あの飛び出している一枚はきっとフェイクだ。このように見せておけば、僕はその一枚を警戒せざるを得ない。そして彼は考える。僕がその一枚をひくことはないだろう、と。つまりその一枚以外、おそらくは飛び出している一枚の横をサクは取る。飛び出しているカードは彼が扇状に広げた一番隅にあるから、横に配置出来るカードは一枚のみ。そこにジョーカーを配置すればサクは必ず取る。
 という、自分の狙いにはサク程度でも気付いているだろうと、彼は考えている。フェイクのフェイクを見抜くぐらいには、サクの頭は働くだろう、と。そこで小牧はさらに考えるだろう。サクがそこまで気付くということを仮定すると、サクが安心して手を出すのは、飛び出している一枚である。そこにジョーカーを配置すればサクは必ず取る。小牧の考えは、おそらくここまで。これ以上は考えていない、と僕は考える。つまり。
「ここだ!」
 僕は端から二番目に手をかけて、一気に抜き取った。
 ジョーカーではないものは、これだ。
「と、お前は考えている」
 瞬間、小牧が不適な笑みを湛えた。
「何……!?」
 恐る恐るカードを裏返す。
 ジョーカーだった。
 小牧が邪悪な顔をして笑う。
「計画通り」
 恐るべき男だった。部活だけでは、運動だけでは、ない。頭も出来る。そうだ、そう言えば野球部の指針は「文武両道」。テスト前さえ部活を休まないのに、学年のテスト順位では上の中くらいに野球部のメンバーが名を連ねる。恐るべき戦闘集団だ。優勢に立っていたと思っているのは僕だけで、ライバルにとって不足はないということか。いいだろう。僕はみっこをちらりと見た。みっこ、僕を勝たせてくれ。
「続けよう」
 それから僕はトランプに集中する。
 京都までの道のりなんて、あっという間だ。
 楽しく過ぎる時間は短い。いつもなら午前中の授業だけでうんざりしている。でも今日はあっという間に過ぎ去る。いつもこうならいいのに。みっこと楽しく笑って、友達と楽しく笑って、ずっと過ごしていければいいのに。もし、そうやって過ごしていったら、人生が短く感じてしまうのだろうか。それでもいい気はする。無駄に長いよりは、まだ短く楽しい方がいいような気がする。
 僕は、そう考えていた。

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六日目:サク編 15話

 京都に着いたのは、もう午後に差し迫った時刻だった。
 それはそうだ。あんな集会ばかりしていたら、日が暮れてしまう。一日目はクラスの集団行動になる。僕のクラスは嵐山付近でトロッコ電車に乗る、という。僕は詳しく知らない。詳しく知る必要ななさそうなので、みんなに並んでついていくだけだ。ほとんどの人間は集団行動に自主性は必要ない。二人か三人、リーダー格の人間がいればいい。三十人くらいならそれで十分だ。あとは烏合の衆と化して、無駄な思考することなく、ぞろぞろとついて行くだけでいい。その方がまとまる。僕はそんな言い訳のもと、ぞろぞろとトロッコ電車に乗り込んだ。秋になれば紅葉が見事らしいが、そんな情報を桜も終わった春に言われても迷惑なだけだ。
 迷惑なだけだ、ふん、と僕はトロッコに乗り込んだ。だけど、それでも保津峡の眺めは澄んでいた。素直に綺麗だ、と思った。ガガーリンがきっと宇宙ではなく、人類で始めて保津峡の探索に向かったら、やっぱり「保津峡は青かった」と言うと思う。目から頭に向かって一直線に撃ち抜かれるような強烈な青さ。それなのに自然は僕に対して無関心だ。置いていかれるような孤独感に心を蝕まれながら、まだ目の前に存在する大きさの安心感を同時に得る。僕はまだ宇宙には行ったことはないけど、たまたま宇宙より先にこの場所へ来た。「保津峡は青かった」と言ったって、別に大げさじゃない。たぶん、ガガーリンはここへは来たことないだろう。宇宙の美しさは知っていても、保津峡の美しさは知らない。その点、僕が優勢だ。きっと人間は、こういう美しいものを焼き付けるために、心を持ったんだ。
「桜が咲いてると良かったな」僕は外を見ていた。
 ふいにフラッシュが至近で焚かれた。横を見ると、いつの間に忍び寄ってきたのか座席につかまって揺れながらやっと立ってるみっこがこちらにカメラを向けていた。「なに」「ふふ、黄昏のサクちゃん激写」みっこが嬉しそうに笑った。
「それ、どうするの」
「もしかしたら、誰かに需要があるかも」
「そんなわけないじゃん」
「そうでもないかもよ?」
 トロッコ電車がガタン、と速度を落とす。瞬間、みっこの体ががくんと揺れた。右足を半歩後ろに置いてバランスを取る。僕は手を出そうとして、すぐ引っ込めた。その手を見せまいと思ったけれど、もう隠せない。
「ふふ、ありがと」みっこが優しく微笑んだ。
「何が?」
「何でもないけど。桜、好きなの?」
「いや、別に好きじゃないけど。ちょっと中途半端な季節だよね」
「そうね。だけど青葉も綺麗じゃない」
「まぁ綺麗なんだけどさ。一生に一度の修学旅行なんだからさ、せっかくなんだし京都の桜を見たかったなって思った」
 みっこは少し考えるふうに、自分の右頬を優しく触った。
 瞬きを短い間隔で数回する。長いまつ毛が、それ自体小動物のように飛び跳ねる。
「……サクちゃん。桜見たい?」
「へ? いや、まぁ、せっかくだしね。でももうとっくに」
「そうね。終わっちゃってる。残念ね」
 みっこは悪魔的な笑いを浮かべると、自分の座席へ歩いていった。早すぎる初夏の匂いが、みっこの制服のスカートを揺らす。自分の席に戻って、クラスメイトの一人にインスタントカメラを渡すと、渓谷を背景にピースサインをにこやかな笑顔と共に送った。あの写真欲しいな、と思ったけれど、どうやってもらえばいいのか分からない。
 ――誰かに需要があるかも。
 誰に? みっこに? あれはみっこのカメラだから、みっこは僕の写真を持ってくれるだろう。時々見てもらえるのだろうか。それともアルバムに挟まって、置き忘れられてしまうのだろか。僕がみっこの写真を手に入れたら、机の中に入れておく。やっぱりこの修学旅行が終わったら、一枚くらいみっこの写真を手に入れよう。同じ班なのだし、不自然ではないと思う。何なら、班員で取った写真でもいい。そして机の中に入れておこう。自分の席から、みっこがこちらを見た。目線が合う。(景色が綺麗ね)、というサインを目で送ってくる。僕にだけ分かる。あの視線は(綺麗ね)と言っている。僕は(二人で来たいね)というメッセージと共に視線を返した。しかしみっこは何をどう勘違いしたのか、ポセリを一本取り出して、僕に向かってゆらゆらと振る。(食べたくないよ)と視線を返すと、くすくす笑ってポキリと食べ始めた。もう僕に興味はなさそうだ。
 伝えるというのは難しいものだ、と思う。
 この前、公民館で感じたのは嘘じゃない。このままの関係が続くのなら、このままでいいのではないかと僕は思う。だけど青春は続かないものだ、ということは僕にも分かる。具体的には、たぶん高校からは続かない。確実に別々の高校に行くだろうから。そこでみっこは誰かを好きになるかもしれないし、誰かと付き合うこともあるだろう。それが普通だ。そして誰かと結婚するだろう。僕がその時、側にいれればいいけど、せめてみっこが幸せになればいいなと思った。そしてそんなことを既に思った自分に対して、おいおい、と思った。
 それからクラス写真を撮り、少しの自由時間が入った。僕はなぜか小牧にくっ付いて土産屋をぶらぶらとしていたけれど、これと言って何もない。テレホンカードを買っても仕方がないし、キーホルダーを買ったってどうしようもない。見ると小牧がいなくなっていて、軽く探したところレジで何やら買っていた。
「何買ったんだ。まだ一日目だぞ」
「いや……、我慢できなかった」
「何が」
 僕と小牧が揃って店を出る。ビニール袋から恭しく小牧が竹細工みたいなものを取り出した。
「南京たますだれ」
 ――ああ、店の中でテレビに映ってた大道芸人然の人がやってたあれだ。どうりで小牧がテレビの前から離れないと思った。魅了されていたのか。さては南京たますだれ。釣竿を作ったり、それがすだれに戻ってから柳になったりする。歴史を感じる鮮やかな文化だった。その土産用の安物だろう。僕は両手で顔を覆う。
「お前……、実は馬鹿だったんだな」
「馬鹿じゃない」
 小牧が南京たますだれの一端を持ちながら否定する。どういう構造になっているのか気になるらしい。ふいっと持ち上げた瞬間に、ばらばらと地面に落ちた。「あっ」「あーあー」小牧が慌てて全部の棒を拾うが、今度は元に戻らない。そろそろ自由時間の終了が迫っていた。「行くけど」と言うと、小牧はぐちゃと南京たますだれをビニール袋の中に入れた。後ほど片付けるつもりらしい。その慌てぶりに僕は心の底から落胆を隠せなかったが、それと同時にふつふつと友情を感じたことも隠せなかった。案外面白いライバルだ。ますます油断出来ない。
 僕らがクラスの集合に加わるのを見届けて、竹島が話を始めた。
「はい、静かにして。これからホテルに向かいます。ホテルに着いたら各自、決められた部屋は分かりますね。部屋に荷物を置いて、ロビーに一度集合。その後夕食になります。少しの自由時間の後、この時間に入浴です。班活動になります」
 滔々と竹島が話を続ける。その半分も頭に入らなかったし、別に竹島も僕の頭に入ることを期待してはいないだろう。そういう先生だ。学級委員と、まぁあとはみっこが分かっていればいい。みっこは真面目だし班長だから、僕と違ってその点しっかりと頭に入れるだろうし責任感もある。班のことはとりあえず任せてもいいだろうと思う。隣にいる小牧もいちいち頷きながら聞いているから、とりあえずは安心だろう。ちなみに班の中で係を割り振られない生徒はいない。僕は布団係というわけの分からない係で、ホテル内では室長に次ぐ権力を持ち、みんなの布団を支配する。ホテルという割に畳部屋なので、布団を敷くタイミング、朝畳むタイミングを僕が監督する。そんなものははっきりいってどうでもいい。どうでもいいから率先して僕はそれを選んだ。ホテルの部屋はクラスでだいたい六部屋。二班分の男子と女子がそれぞれ別れて、泊まることになる。班は全部で六つ。消灯は十時だ。
「スケジュールは各自、修学旅行のしおりを見て確認するように」
 と竹島はまとめた。それならば、別に説明は必要なかったと僕は思う。
 乗ってきたバスでホテルに着いた。室長である小牧が鍵を受け取る。小牧は部活に明け暮れて、係の決定にも顔を出せなかったため、一番面倒な役を知らぬ間に任されていた。室長は、もしかしたら班長よりも面倒くさい。夕飯、朝飯、風呂、消灯、先生からの伝達、先生への報告等、時間を管理しなければならないからだ。エレベーターに乗る。「何で俺が室長?」「もう諦めろよ」小牧が溜め息を吐きながら、紫色の透明なプラスティック棒が付いた鍵の鎖を指にはめて、くるくる回した。
「何階だっけ?」
「五階三十九号室。五三九。パンフレットに書いてあったろ」
「そうだっけ」
「お前って、見てるようで何も見てないのな」
 小牧が馬鹿にするように鼻で笑った。誤解のサク。あまり気分の良い数字じゃない。エレベーターが軽率な音を立てて止まる。着替えの入ったボストンバッグを持ち上げた。エレベーターを出て正面には窓があって、五階からの眺めが見えるかと思いきや、ただの隣の建物のベージュの壁が見えた。「壁、近いな」僕が窓に近づく。「まぁこんなもんだろ。修学旅行で泊まるトコなんてさ」小牧が先を歩く。何度か来たことがあるかのように迷いがない。「そっちなのか?」僕が尋ねると、小牧が黙って壁を指差した。三十?三十九号室は左に曲がれという案内が手書きで貼られていた。
「三十九号室は一番奥。眺め、いいかもよ?」
「だといいけどね」
 扉を開くと据えた畳の匂いが鼻腔を刺激した。入ってすぐはフローリングで右手にドアがある。開けてみるとユニットバスが付いていた。「風呂って」「ああ、下に共同ででっかいの、あるって書いてあったよ」小牧が答える。京都まで来て、ユニットバスはない。部屋の前にはふすまがあって、今は開いて、奥の部屋が見えた。六人が泊まるにしては、思いのほか狭い。荷物を部屋の隅に置いて布団を六枚敷いたらそれで面積が埋まってしまうんじゃないか。僕はそう思った。八畳くらいだろうか。もう少し広いか。僕の家のリビングよりは広い。最初は真っ白だったのかもしれないけれど、淘汰されてベージュになったかのようなのっぺりとした壁。左手には池に映る金閣寺の写真が飾られて、それが嫌味にあざとかった。小牧がボスッと部屋の隅に自分の荷物を投げて、窓に歩いていく。
 僕は飼育されている伝書鳩のような気分になった。毎朝、決められた時間に外へ出て行く伝書鳩だ。窓を開ける瞬間、きっとこんな気分なんだろう。飛び出したい。窓の向こうには、大きな空が広がってて、僕は電車がレールに乗るように、その空へ飛び出す。そんな気分だろう。小牧が安っぽい鍵を下に下ろして窓に手をかける。一気に開けた。
 やっぱりベージュの壁があった。
「……こんなもんかな」
「……こんなもんだな」
 小牧が軽く溜め息をついて笑った。僕も乾いた声で笑う。ボストンバッグを小牧の荷物の横に行儀よく並べて、畳の上にペタンと座り込んだ。「何か疲れた……」「じじいめ。まだ予定は詰まってるんだぞ」小牧が自分の荷物を空けた。パンフレットを取り出すのかと思ったら、南京たますだれを取り出して、元の状態に戻そうと考え始めたようだった。

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六日目:サク編 16話

 このホテルは失敗だと思う。
 夕食はカレー。京都まで来てカレーはないんじゃないかと思う。だからと言って、京都の料理が何なのか僕は知らない。それでも薄味の蕎麦が出てきた方がまだ様になった。それが普通のチキンカレーだ。おいしいけど。京野菜でも入ってるんじゃないかと思って根気良く具材を確かめたけど、一般的なチキンカレーの枠から外れた奇抜な具材は一向に出てこない。みんなも渋々ながら、満足している。複雑な気分だった。子供なんてカレーを出しとけば満足でしょう、という意思を感じたり感じなかったりした。でもチキンカレーに罪はない。小牧は三杯食べた。
「やっぱりさ、カレーは最高だよな。カレーがもっと広まれば、世界は平和になる気がする」
 食堂は一階のホテルの入口近くにあった。部屋に戻る途中で小牧が呟く。ちなみにこれから少しの自由時間だ。でもそれは自由時間と名ばかりで、風呂に入る時間が区分されて決められている。その時間内に班員と風呂に入ってしまわなくてはならなかった。その後は六つの班が六つの部屋に分かれて班活動となる。進学する高校を調べて、その目標を達成するために自分がどれほど偏差値を上げなくてはならないのか、という頭の痛いことを考えなくてはならない。なぜそんなことを京都まで来てやらなければならないのだろう。もしかしてこういうことをやらなければ、修学旅行というのは空き時間が出来てしまうんじゃないだろうか。きっとそうだ。旅行に来て、ここまでせせこましく動くのだから。班行動は班で集まるし、みっこも来るし、個室だから、それなりに楽しめそうではあるものの、成績について話し合うとすれば、みっこは成績がいいし、小牧も成績がいいし、僕は普通以下だし、時々先生が見回りに来る。
 カレーがあれば平和だという小牧を、恨めしそうに見た。
「お前は、運動も出来るし頭もいいけど、案外単純なんだよな」
「そんなことない」
「そう?」
「お前こそ、運動出来ないし頭も悪いけど、案外複雑だよな」
「そんなことはない」
 ふふ、と小牧が馬鹿にするように笑う。
「でも、きっと複雑じゃない人間なんていないさ」
「そう?」
「きっと、そうだよ」
 小牧は思うところがあるというふうに、うんうんと頷いた。「どうしてそう思う?」「俺がそうだから」即答した。エレベーターに乗り込む。夕食を食べた人から各自部屋に戻れという指示だったので、三杯カレーを食べていた小牧と、なぜか小牧を待っていた僕はクラスメイトの中で一番遅くなってしまった。だからエレベーターに乗り込むのは僕らで最後だ。あの豪快な食べっぷりを見た後では、とても小牧を複雑な性格だと称することは出来ない。世界が小牧だけで出来ていたら、本当にカレーがあれば平和だろうと思う。
「誰でも心の事情ってあるから。な、サク。単純な心と、複雑な心、どっちが偉いと思う?」
「偉い?」僕は考えた。単純な心と複雑な心。優劣をつけるもんじゃないと思う。でもどちらかと言えば、「単純だね」と言われるより「複雑だね」って言われた方が褒められている気はする。単純は馬鹿の別称だ。心がどうやって育つのかは分からない。でも、僕だって今まで感じたことのない感情を最近感じるようになってきていると自覚する。その一つがみっこのことだったりする。みっこのことを考えると嬉しくなるのに、脳味噌に真綿が運ばれているようにもやもやとした気持ちになる。その感情を何と呼べばいいのだろう。「好意」? まだ上手く名前をつけられない。みっこの顔、髪、体、声、動作、服の切れ端だって、視界に入ると少し息苦しくなる。心の奥の方から手が伸びてきて、そういうみっこのいる景色を抱きかかえて大切にしようとする。だからだんだんと心が重くなっていく。サクちゃんって呼ばれるたびにくすぐったい。ただ、今より楽しい時期は人生にないんじゃないか、と予想している。今より楽しい時期がこれから先にあるとしたら、それは今に対して失礼にあたる気さえする。そういう渦巻く感情を誰かに理解されたいと思う。でも、理解されるほど簡単なものじゃない。単純と切って捨てられたくはない。自分でもよく分からないこんな感情だから、複雑だと評された方が質が高い言葉を当てはめられた気がする。
「どっちが偉いってことはないけど……、複雑って言われた方がまだいいな」
「そうだな。でも、最近俺、上手くいかねぇなぁって思うことが多くてさ。迷路歩くみたいな時あるよ。そんな時にさ、もっと単純だったら、迷路なんて作らないで、もっと簡単にゴールまで行けたかもしれないって思う」
「お前が上手くいかない? そんなの、僕はどうしたらいいんだよ。高校のこと考えると、泣きたくなる」
「何で? どこか行きたいの?」
 だって、みっこと別れちゃうから、という言葉が喉元で何とか止まった。「別に……」ああ、そうだ。こいつもみっこのことが好きだったんだ。僕の予想だけど、たぶん間違いはない。それなら、「上手くいかないこと」っていうのは、みっこのことなのだろうか。みっこはモテるから、と僕は黒い気持ちで考えた。小牧は運動も出来るし、勉強も出来る、坊主だけどまぁルックスも悪くないし、努力家だし、男らしいとこあるし、意外といいやつで面白い。そうしてステータスを挙げていくと憂鬱になった。みっことはお似合いなのかもしれない。少なくとも僕よりは。
 少し顔を動かして横目で、小牧がついと僕を見る。
 そして部屋の扉を開けながら呟いた。
「俺はお前になりたいよ」
「へ? 何で?」思いもがけない言葉に少し驚く。小牧は僕の言葉を無視して、部屋に入ると班員達と風呂の相談を始めた。十五分ほど時間を潰してから、風呂に向かう。その共同の浴場もよく言えば家庭的、悪く言えばみすぼらしい。壁に細かなタイルで何らかの絵が描かれている。たぶん、海だ。それで京都って海あったっけ、なんて考えてみるけどよく分からない。しかもそのタイルの間には万遍なく黒いカビが発生していて、何だか頭の中で象をつなぎ合わせるパズルみたいだった。それから浴槽が狭い。五人入って厳しい。なるほど、これなら班ごとに入浴時間を決めて入らなければならないだろう。物理的に。どうしてこんな場所が修学旅行に選ばれたのか謎に思う。小牧の筋肉質の体が湯船に沈むと、派手な音を立ててお湯がこぼれた。僕はそれを横目で見る。
「明日、朝、野球部早いんだろ」
「早いねぇ。五時に起きて走りこみだって」
「他のクラスは?」
「何でクラスごとにホテルが違うんだろね?」
「さぁ……。頭の良い順でランクが分かれるんじゃない?」
「俺ら、よっぽど頭悪いのな」
「まぁね」
 くつくつと小牧が邪気のない笑顔を見せる。
「他のクラスの部員も一緒。駅前集合」
「へぇ……。起こすなよ」
「さぁね」
 小牧は言いながら湯船から出た。早い。カラスの行水とはこいつのことを言うのだ。僕は風呂は長くつかるほうなので、時間一杯まで使うつもりでいた。それにしても野球部の噂は本当だった。修学旅行五時に起きて走りこみとはご苦労なことだと思う。この修学旅行の間、二日や三日くらい体を動かさないくらいで何が衰えるというのだろう。野球部の顧問は根性至高主義なので、きっと「心が衰える」とでも言うのだろうと思って、一人にやけた。修学旅行に来て、小牧が急にナーバスになっていると思う。それが何なのか、やっぱり上手く言葉に出来なくて、湯気の中に思考が消えて行く。どうでもいいことだけれど、とも思う。放っておいてどうでもいい人間っていうタイプはやっぱりいる。例えば問題を自分で解決して、もりもりと人生を進むタイプ。きっと小牧はそうだ。他には、解決はしないけれど人には頼りたくなくて一人抱え込んで、もやもやと人生を這う僕みたいなタイプ。どちらも一人で何とかしようとするという点においては、僕らは似ている。だけど本質的に全く違う。円柱と円錐くらい違う。円柱はかっしりしていて、裏切りのない形をしている。円錐は不安定で、どっちつかずですぐに裏切りそうな形をしている。絶えない湯気の中にそれらが浮かんで、消えた。
 ライバルはライバルの匂いが分かる。それならば、僕のみっこへの気持ちを小牧が分かっていたって不思議じゃない。もし、小牧が先に手を打ってきたら、僕はどうすればいいのだろう。手を打ってきたら? 手を打つとは何のことなのか、僕には分からない。告白、とかすることか? 告白なんてしてどうする。小牧は何を考えているのだろう。いや、そもそも僕は小牧のことを何も知らないのだけれど。
 風呂から出て、男湯のドアを開けたところで声をかけられる。
「サクちゃん」
 ふんわりとした声と香りが僕を包む。みっこだった。肌は陶器のようで、それでいて健康そうな光を放っていて、髪はまだ濡れていた。ネズミーのビニール袋を持っているところが大きなマイナスだったが、そんなことすら気にならないほど綺麗だ、と思った。「みっこ」僕はほとんど無意識に答えた。
「女の子に十五分って短い……」
 みっこが不満そうな声を漏らす。
「髪濡れてるもんな」
「うん、乾かす時間あるかなぁ」
「いいんじゃない。次班活動だし、少し遅れてもさ」
「班長が遅れるって……」
 二人は少し笑いながら、並んで歩いた。
 エレベーターに乗り込む。
「何階?」
「ん? あ、四階。四三九号室なの」
「ふーん」と言いながら、四三九を心のメモに書きとめる。
 覚えておいたからって、何があるわけじゃないけれど。
 死のミク。何て数字だ。これもいい数字じゃないな。
 そう考えたところで、そう考えてしまったことをすぐに打ち消した。
「ん? 三十九? 僕らもだ。五三九号室だよ」
「あ、そうなんだ? 上? 夜は静かにしてね」
 そう言って、みっこは、ふふ、と可愛く笑う。
「そっちこそ」と、僕は四と五のボタンを押した。エレベーターが無言で僕らを閉じ込める。そして僕らも釣られて言葉を失う。密室でみっこの石鹸の香りに包まれて気が変になりそうだった。そして、この狭苦しい息苦しい個室の中に、決して手の届かない無限の距離があった。みっこは僕の後ろに立っている。振り向きたいと思った。何か会話していたい。別におかしくはないだろう。でもいつの間にか首の関節が石臼のように重い。僕は仕方なく押し黙って、扉の上についている数字が一から上がっていくのをずっと見ていた。ずっと辿り着かなきゃいいのにと思った。

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六日目:サク編 17話

 夢を見ていた。
 卒業式の夢だった。既にみっこは僕とは違う高校へ進むことが決まっていた。それは小牧と一緒の高校だった。それはそうだろう。この辺じゃ高校の選択肢なんて多くない。テスト順位にしてトップから二十位離れるごとに違う高校を目指すのが無難だ。だからテストで同じような点数を取るクラスメイトはだいたい同じ高校へ進む。その決まりさえ破らなければ、自分の身の程を理解していれば、受験で落ちる人間なんてそうそういない。
 みっこは泣いていた。周りの女子も泣いている子が多かった。中学の卒業というのは、小学校とはまた違った。地域の中学校にエスカレート式に進むだけだったから、友人達と別々の中学に行くこともなかった。だから小学校の卒業式では、また四月から顔を合わせるんだろう、と誰もが思っていた。それでも泣いてた女子はいたけど。面子は変わらず、環境が変わるだけ。だから僕は別に悲しむこともなかった。でも中学の卒業は違う。別れの匂いがする。別れというのは、自分で分かってしまうことなんじゃないだろうか。もう、会うこともない人がこの中にはいるんだな、ということを感じてしまうことが別れの感情なんじゃないだろうか。みっこは泣いていた。ねぇ、みっこは誰との別れを思ってる?
 僕はどうすればいいのか分からなかった。声をかけることも出来なかった。突然距離が開いた気がして、近づくことさえ出来なかった。仰げば尊しなんて何の意味はなかった。高校にもまるで興味がなかった。受かったから行くだけだった。みっこと別れる。南極の氷が溶けるように、僕の心は静かに崩れていくような気がしていた。卒業式は終わった。何だか味のないキャンディを舐めているような気分で終わった。僕は泣き続けているみっこだけを見ていた。
 その後、みっこはみんなに囲まれた。みっこの泣き顔は可憐で、放っておけない寂しさを誘う。だからみんなみっこを中心にして、男子までもがつられて涙を流し始めた。側には小牧がいた。お前はみっこと同じ高校に行くだろうが、と思った。人だかりの隙間を縫って、泣きじゃくるみっこへ視線を向けた。手の平で目を押さえているみっこは僕に気付かないだろう。奥歯を強く噛んだ。あの人だかりを全て吹き飛ばして、みっこを強く抱きしめたいと思った。
 僕は蟻地獄に絡み取られたような自分の足を必死に引き剥がして、その人だかりに背を向けた。
 涙が出ていない、という事実が僕をさらに無表情にさせた。こんなに感情を出すのが下手だったのか。
 ただ歩いていく。僕の目の前にはぼんやりとした白い世界が広がっていた。
 終わりというのは、こんなにあっけなくて淡々としているのだ。
 その道をただ歩いていく。
「サクちゃん!」
 その呼び声で、僕は銛で突き刺されたかのような衝撃を受けて震えた。「サクちゃん!」振り返ると、みっこが自分を囲っていた人だかりを置き去りにして、息を弾ませて僕の方へ走ってくる。まだ涙が流れている。でもそんなものを無視しているかのように、僕の方へ走ってきてくれる。「みっこ!」僕も叫んだ。みっこが僕を目指して走ってきてくれている。
 みっこへ手を伸ばす。
 その瞬間だった。
 ジリリリリリリリリリリリリ!
 何かが爆発して、爆音が辺りに放射された。
 何もかもビリビリに引き裂くような、乱暴な破壊音だった。
 ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ!
 ただならぬことが今起きたのだ。そのことだけを僕は悟り、少しでも早くみっこを守ろうとした。「みっこ!」みっこの方へ足を一歩出したとき、みっこが立ち止まった。なぜ今立ち止まる? もう少しで、僕の手が触れる。いつもそうだ。みっこは僕の近くにいるけど、僕の触れられない距離にいる。何でだ。「みっこ!」僕は必死に叫んだ。
 ああ、そうだ。いつだってそうだ。僕は既にここにあるものとの距離を測るために、無用なものをもってくる。果てしなく続く感情だったり、意味のない状況証拠だったり、過ぎてしまった思い出だったり、そういうもので、みっことの距離を測ろうとするのだ。それらを一生懸命建設して、溝を埋めようとする。そういうものがいくつ、僕らの距離に収まるか確かめようとする。そういう不透明な無限性こそが、僕をやきもきさせるのだ。零がそこにある。決して届かない距離が、すぐそばにある。
 みっこが目の前にいた。僕はランニングマシンに乗っている気分だった。
 みっこが、僕をしっかりと見ていた。
 みっこが、何かを言った。
「わた…………を……す…………で」
 ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ!
「え、何、みっこ! よく聞こえない!」
 心のどこかで、逃げなければと思った。どこか安全な場所へ逃げなければと思った。みっこを連れて逃げなければと思った。みっこの方へ走っていく。でもみっこにはどうしてもなぜか到達出来ない。僕は唇を噛んで全力疾走した。でも辿り着けない。みっこは寂しそうな微笑を顔に浮かべたままこっちを見ていた。僕は手を伸ばした。あと少し。あともう少しなのに!
 みっこに触れる、その瞬間。
「サク!」
 僕を呼ぶ声に目を覚まされた。
 うろんげに目を明けて確かめる。小牧の声だった。彼はなぜか僕の布団の脇に立って、窓を凝視していた。開ければすぐにベージュ色の壁が見えるはずの窓を。何の音だ? 辺りが割れんばかりに騒がしい。少し首を動かすと、小牧だけじゃなかった。班員がそれぞれ、幽霊のようにぼんやり立って、窓を見ていた。「おい! サク! 起きろっ!」小牧がまた叫ぶ。もう起きてる、と僕は思った。小牧は僕の方は見ていない。ただ、僕に向かって呼びかけているだけだから、僕が起きたことも気づかないのだ。それは彼の責任感がさせることだろう。「なに?」僕は言う。でも、彼はただ、窓の一点を蝋人形のように見ていた。
 だから僕も寝たまま、窓を見た。
 その窓の向こうにはただ、隣のベージュの壁があるはずだった。
 あれ? と思った。

 ――外が明るかった。

 小牧がまた叫んだ。
「サク! いい加減にしろ!」
「もう起きてる!」
 僕も叫んだ。
 それに呼応して、小牧がやっと振り返った。
 まるで金剛力士像のように唇をへの字に曲げて、何かに怒っているかのようだった。
「火事なんだよ!」
 少し理解が遅れて、この破壊音の正体を掴む。
 警報なのだ。これは。部屋に充満しているこの音の正体は、火事を知らせる警報なのだ。それが部屋に隙間なく溢れている。
 僕は比喩ではなく、壁に布団を投げつけてバネ人形のように立ち上がった。「いつから!?」と喚いたが、いかにもずれていることが自分で分かった。頭が全く働かない。まだ僕は寝ぼけているのか。こういう時、何を考えていいのか分からない。いつから、なんて決まっている。さっきからなのだろう。何をすべきなのか分からない。しかし他のメンバーも同じようなものだろう。みんな腑抜けたように、ただ閉じた窓を凝視している。それらを見ると、一番情報を得るのが遅かった僕は、少し楽観出来るんじゃないか、と思った。もし、もっとひどい火事なら、みんなはもっと機敏に反応するだろう。これは大したことがない火事なのだ。そうに決まっている。近所のゴミ収集所のボヤ程度かもしれない。「どこが?」と僕は尋ねた。誰も応えてはくれない。みんな分からないのだ。その、みんなに共通する一種の無知に僕はなぜか安心した。少なくとも、危険が差し迫っていることはないだろうと、勝手に考えて、一人納得した。
 その中で、しかし、小牧が動いた。
 もう小牧だけが違った。僕と会話したことでスイッチが入ったのだろうか。あるいはもともとそういう人間なのだろうか。おそらく後者だろう。誰よりも順応力が高く、誰よりも俊敏で、そして誰よりも機転が利く。小牧は実に大したヤツだと思った。ただ遠目で、いまだに窓を凝視することしかしてなかったメンバーと違った。まずは僕を起こしたのも小牧だったのだ。逆に言えば、この警報音の中で、最後まで寝ていたのが僕だった。情けなさを通り越して心配になる。この警報の中、寝ていられるなんて尋常じゃない。それに比べて、今や小牧は、洪水の前のハツカネズミのように機敏に反応していた。空気に流れる情報を欠片も逃さないかのように、キョロキョロとしていた。でも混乱しているわけではないようだった。ただ、考えるべきことを、考えようとしているように思えた。
 そして彼は走った。窓に向かって。彼は瞬時に窓の鍵を開けると、顔を乗り出して階下をのぞいた。それは至極まともな思考だと思った。きっとこういう場合、誰だってそうするだろうと思った。ただ、でも、僕には出来なかった。僕らには出来なかったということが事実であり、その簡単なことを小牧はやってのけたのだ。そこから入ってきた外の空気が、やけに臭った。煙の焦げた臭いとか以前に、ゴムが焼ききれるかのような臭いだ。それでも僕の頭のスイッチは、どこか接触不良だった。「燃えてる……」と、小牧が呟くのが聞こえた。
「どこが?」
 僕は再び、尋ねた。まだそれは、どこか異国の話のようで、だからこそ「どこが?」と尋ねたのだ。どこなんだ? それって日本の話なの? 現実感が未だ僕から遠くにある。その一方で頭が警報に合わせて、赤く点灯を始めた。小牧が、しばらく階下をのぞきこんだままだったからだ。まさか修学旅行に来て、火事に遭遇するなんてことは考えられない。考えられないよな、と僕は自問自答した。悪くて隣のビルの火事だろうと思った。それならなぜこの建物の警報がけたたましい音を立てている? まだ夢の中にいるんじゃないのかとも思った。
 しばらくして小牧が勢いよく首を持ち上げる。
 そして決め付けるように、鋭く言葉を発した。
「逃げるぞ!」
「どこが火事なんだ!」
「うるせぇ! 自分で見ろよ!」
 僕は、そこでやっと催眠術が解けたかのように動いた。一瞬で窓に駆け寄り、小牧を押しのけるようにして、窓枠に手をかける。クラスメイトの何人かも、僕に追随した。そして下をのぞき込む。まずは風。ごうっと、強い風が僕の顔を撫でた。地獄の扉を開けた気がした。その風は、真夏の空気なんかより熱い。そんな……。赤い。夕焼けみたいに赤い。煙が風に流れていた。思いのほか風が強いのだ。建物が密集しているから、複雑な風の経路を作っていて、煙が横に流れている。火事は紛れもなく、この建物だった。そしてボヤなんてレベルじゃない。僕が今までの人生で見たことのある炎の中で、一番大きい。火事? いや違う。そんな生易しいものではない。火災? それも違う。火を扱う動物なのだ。人間は。それがどの程度なのか、本能で分かるのだ。
 あれは、劫火。
 あれは、このまま全てを焼き去る存在。
 階下、たぶん、一階から二階、それがまるで火の海だった。ホテルの入口部が、たぶん、一番酷い。入口から、炎が外の世界を侵食するかのように手を伸ばしていた。さしずめこの建物は、火の海に立つ塔だ。「消防車だ!」僕は叫んだ。一瞬それが頼もしい救いのように思えた。でもそれは一瞬だった。おそらくは救いにはならないことを、一瞬にして見切る。なぜなら消防車は、この建物と建物に囲まれた細い視界のずっと向こうに小さく見えるだけだから。この小さい隙間には、おそらく人一人通るのが精一杯だから。さらにここは五階だ。その赤い車は果てしなく遠く、小さい。この劫火に比べれば、まるで無力だ。
 僕の心の奥底で、暗く光る本能が呟いた。
 ――死……?
 そんな……。
 こんなところで?
 僕の心に、混乱という震撼がやってくる。
 その瞬間。
「荷物なんて置いてけ!」
 その怒声にビクッとして、室内を振り返る。すると、荷物をまとめようとしているクラスメイトに対して小牧が怒鳴っていた。「着替えなくてもいいよ! 馬鹿!」部屋に混乱が巻き起こっていた。「逃げなきゃならないんだ!」小牧はその混乱を静めるために、一人一人、怒っているのだ。怒って、そして自分の平静をやっと保っている。それが良策とは僕だって思えない。「どうやって逃げんだよ!」「先生は!?」小牧が熱くなればなるほど、クラスメイト同士で諍いが起こってしまっている。
 でも、僕は、その時、この状況で、この小牧という男を尊敬してしまった。本当に恐れ入った。こいつは、必死に「みんなで」逃げる方法を考えているのだ。その姿勢が何よりも、混乱を始めた僕の心を覚ましてくれた。
「小牧」
 僕は小牧と目を合わせる。どこかすがるような目になっていまっていることを自覚した。しかし、小牧の目も強い力をたぎらせながら、しかし僕にすがっていた。「どうすればいいんだ」小牧が僕に尋ねる。そんなこと僕が聞きたかった。先生は何をしている? こういう時、真っ先に生徒に向かってこなくてどうする。指示が欲しい。竹島先生。僕らは、まだまだ子供だった。全くの無力だった。逃げなければならないのは理解した。でも、どうすれば逃げられるのか分からない。ドアを開けて、右に逃げればいいのか、左に逃げればいいのか。階下が燃えているんだ。上に逃げればいいのか、下に逃げればいいのか。だいたい僕は、このホテルの構造を知らないのだ。
「たぶん、一階の食堂……」
 僕は幾分、静かな声で小牧に伝える。
「何が」
「火事が起きた場所。下、見たろ」
「見たよ! だから!?」
「ホテルの入口が一番燃えてる。消防車も一杯来てる。あそこ、食堂だろ。他に火が出るとこ、考えられないし」
 小牧は、それが何だという顔をする。僕だってその情報が何につながるのか分からない。でも、小牧なら、知っているはずだ。覚えているに違いない。このホテルの構造を。「お前、見たんだろ。パンフレット。このホテルの。覚えてない? 僕は見てないんだ。もう持ってもない」その言葉を聞くや否や、小牧は電流に撃たれたかのように機敏に動いた。「裏に……!」と言いながら、自分の荷物の方へ駆け寄る。もちろん荷物をまとめるわけじゃない。小牧が自分のバッグを逆さにして、畳の上にぶちまける。「確か、ここから少し遠いけど……」その中から小冊子を取り出して、そこに挟まってた、このホテルのパンフレットを抜き取って広げた。
「あるぞ! 裏側に非常口!」
 そう言って、小牧はホテルの見取り図の中で、入口から最も遠い場所を指差した。

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六日目:サク編 18話

 部屋の入口を開ける。
 火で溢れているかと思ったら、まだそんなことはない。ここは五階だ。幸運にも火の手は到達していないのだ。それでも、熱気が強く僕の目に入った。まるで焚き火のすぐ側に立っているかのようだった。それから人もいない。廊下は阿鼻叫喚になっているのだろうと思っていたが、まるでそんなことはない。荷物を持った家族が、廊下の隅を走り去っていったのが見えた。それだけだ。そもそも、客があまり泊まっているのか分からない。いや、泊まっているだろう。ここは何ていったって観光都市なのだし、立地だって悪くない。警報装置が鳴り始めて、どれくらいの時間が経ったのだろう。小牧たちはすぐ起きたのだろうか。僕にしたって、この轟音が鳴り響く中長々と寝ていたとは考えづらい。それほど時間は経っていないはずだが、僕らだけ出遅れたのか。
 今パンフレットを見たところによると、このホテルの構造は、大雑把に言えば小さな正方形の中庭を囲んで長方形のフロアに長方形の廊下が収まっていて、その廊下を挟んで入口が対面する形で部屋が配置されている。廊下より外側の部屋は外が見えるが(それでも隣の建物が肉迫しているため、壁しか見えない)、廊下の内側の部屋はたぶん、小さな中庭が見えるのだろう。入口と今から行こうとしている非常口は対角線上にあり、五三九号室から非常口は長方形の廊下の長辺を辿ったところにある。でも大きさの違う部屋があるからなのか、それとも土地の扱い上そうなってしまったのか、その廊下が九十度屈折している場所があって、非常口は一直線上には見えない。
「他のやつらは逃げたのかな?」
 小牧が呟くように聞いてくる。「知らない。というか、他のやつらの部屋も知らない。知ってる?」「ほとんど四階だよ。女子は全員四階だ。男子の二つだけ、五階にある」と小牧は無表情で言った。何でそんなこと覚えているのか僕には分からない。それともそういうことを覚えておくことはクラスメイトとして当然のことなのだろうか。四三九。「あ……」みっこ。みっこはどうなったのだ? みっこは逃げただろうか。みっこは僕らの真下の部屋だ。そうなってくると、同じ非常口から逃げるしかないだろう。一つ階が下なだけに、火の手が早いかもしれないし、一つ階が下であることで、もしかしたら早く逃げれたかもしれない。それは分からない。確かめる方法は、四階に行くか、早く外に出てみっこの存在を確かめるか。どちらが危険か確かめるまでもない。もし、みっこが逃げていたら、四階に行く意味などない。でも、もし逃げていなかったら? もし逃げられない状況だったら? 僕は先ほどまで見ていた夢を思い出した。みっこが離れていく夢。死のミク。そんな、考えすぎだ。今の状況では、まだ逃げ道があると言える。みっこは逃げたに決まっている。死のミク。「先生何やってんだろ」小牧が廊下を見渡す。「先生も四階?」「そう」それならば。それならば先生がみっこたちを引き連れて逃げている可能性だって高い。いかに気力の薄い竹島としても、この状況で腑抜けていることはないだろう。そんな人間ではないと思う。なぜ五階には来ない? 来れないのかもしれない。四階の生徒で手一杯になってしまっているのかもしれない。別にそれを恨みはしない。みっこ。それならば、みっこが助かってないわけはない。僕は小牧を見た。こいつは何を考えている? みっこのことが気にならないのか? 小牧もみっこを好きだと言うのは、僕の勘違いだったかもしれない。でも、間違いないと思う。何を考えている?
「五階にいるもう一つのやつらの部屋は?」
「今から行く非常口の近く……」
「何でそんなバラバラなんだ」
「俺が知るかよ。行こう」
 信じろ。思い込め。
 みっこは、助かっている。
 みっこは、たぶん、助かっている。
「小牧」
「何だ、もう早く逃げよう。もう一つの部屋は非常口の近くだから――」
「――僕は、一度四階に行く」
 小牧の目を見て、言えた。言えて良かった。これは宣言だったから。なぜ? なぜ、僕は四階に行くのか? そんなの決まってる。みっこが、助かっていないかもしれないからだ。その可能性があるなら、僕は行く。たぶん、助かっているだろう。でも、助かっていないかもしれない。もし、そうだとしたら、僕は一生、後悔をしなければならない。言ってしまった。なぜ、と小牧は聞くに決まっている。そして、僕は手短に話さなくてはならない。みっこを助けにいくことを。そんな無謀な申し出はどの感情から沸いてきているのかを。
 小牧が固まっていた。しかし、何を言っているんだ、こいつは、という目ではない。そういう理解が出来ないという目ではない。そして怒ってもいない。馬鹿にしてもいない。まるで、ずっと前から、僕がそんなことを言い出すのを予期していたかのような目だった。すごく優しい目だった。でも、口元はきゅっと結ばれていて酷く厳しい表情だった。ライバルには、ライバルの匂いが分かる。気づいていたのは当たり前だが、僕だけではないのだ。小牧の方がずっと頭が良くて、人当たりもいい男なのだから。
「行くよ」
 僕は、もう一度言葉にする。
 小牧が口を開いた。
「駄目だ。階段もエレベーターも、入口の近くにしかないんだぞ」
「一階下がるだけだし。それが駄目なら、非常口から四階に寄っていく。一人で」
「駄目だ。寄ってくって距離じゃない。分かってんだろ」
「でも行く」
「駄目だ」
 ――ああ、小牧はやっぱり気づいている。
 だから理由を問わないのだ。その上で小牧は頑なだった。それが僕には酷く冷酷に見えた。「きっと、四階のやつらはもうとっくに逃げてる。他の男子だって非常口が近いんだから、絶対に逃げてる。俺らが一番最後なんだ」説得に回る小牧が、一転して途轍もなく卑怯な男に見えた。反感が糸を引いて心をかき乱して、怒りに近くなった。何なんだ、こいつは。みっこが心配じゃないのか。みっこのことを好きなんじゃないのか。それなら間違いなく、四階を確認しないではいられないはずなのに。みっこが。みっこが。みっこが。
 死んでしまうかもしれないんだぞ。
 僕の、どうしようもない感情が行き場をなくして、小牧の胸倉を右手で掴んだ。
「行く! 行かせろよ! お前こそ分かってんだろ!」
 瞬間、小牧も右手で僕の胸倉を握った。
 反射的な動きで、乱暴で、そしてとても力が強かった。
「分かってるに決まってんだろ! お前こそ俺の気持ちが分かってんのかよ! 行きたいに決まってんだろ! 冷静になれよ!」
「お前、よく平気だな!? 自分だけ逃げられるのかよ!」
 僕は暴れるようにしてもがいて、叫んだ。
「みっこが好きなんだよ!」
 瞬間の衝撃。
 僕の右手が小牧から離される。小牧の手も僕から離れた。
「うぇ!」無様な声を出し、床を転がり、滑り、僕は一瞬後、自分が殴られたことに気づいた。
「うるせぇ! みっこ、みっこ、みっこ! それが何だ! 俺だって好きだよ! 馬鹿やろう!」
 小牧が宣言するかのように言い放つ。
 その大柄な体を震わせて、全身全霊で、言葉を放つ。
 ――ああ。
 僕らは何をやっているのだろう。
 だんだん、分からなくなってきた。
 悲しくなって、混乱して、涙を堪える。
 みっこを好きで、助けたい男が二人。
 何で火事の中で喧嘩なんてしてんだ。
「……じゃあ何で止めんだ。行かせろよ。見てくるだけなんだから――」

「お前にも死んで欲しくないからだろうが!」

 ――こいつは、本当に、大したヤツだ。
 僕は、魂が震えるのを感じた。僕は床に手を付きながら、小牧を見上げた。肩を上下にいからせて、やっぱり口をへの字に曲げて、何かに耐えている。僕はとんでもない思い違いをしていたのかもしれない。こいつはもしかしたら一人で肩を切って人生を邁進していくタイプなんかじゃないのかもしれない。その筋肉質な体の内側に、もやもやとした感情を持て余して、心の中で不遇に叫んでいるのかもしれない。僕のレベルと、小牧のレベル。それぞれの高さは違っても、それぞれ心の中で叫び続けてる似た者同士かもしれない。それに加えて、こいつはとんでもなく優しい。僕がみっこに優しくしたいのとは違う。こいつは、きっと人間が好きなのだ。誰にでも優しいのだ。僕にすら、優しいのだ。客観的に優しいことは、どれほど難しいことだろう。小牧はそれが出来る。そして叫び続けてきた。きっと今も叫び続けている。冷酷なんかではない。小牧自身も四階にきっと行きたいのだ。でも、それは諦めている。僕より体力がある分、きっと小牧が四階に行った方が成功率は少し上がるだろう。でも小牧はそれをしない。この状況で冷静を失っていないから。頭がいいから。僕みたいに主観では動かないから。人間を信じているから。心配を信頼が上回っているから。
 小牧が諭すように、言葉を口から流した。
「笠原はきっと助かってる。先生がいるんだから。他のやつらだってクラスメイトは四階に固まってる。誰かが逃げ遅れるなんてことはないよ。きっと全員助かってる」
 でも、それでも僕は行きたいのだけれど。
 僕は答えなかった。
 絶対に小牧が正しい。
「あとは俺たちが助かれば」
 小牧は、苦虫をはき捨てるように微かに笑って、動いた。
 僕はその背中を追って、走り出す。
 煙が多くなってきている。
 袖で口と目を押さえて、ひた走った。

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六日目:サク編 19話

 非常口は鉄の網が足場にあって、申し訳程度に細い手すりが付いている螺旋階段だった。ついでに言うと、その螺旋階段に至るドアは、一般家屋の勝手口に使われているかのようなペラペラのドアで、既に開いていて、火事が生み出す上昇気流によってペラペラと風に揺れていた。
 でも、まだしっかりと残っているし、こちら側には火が達していない。ずっと下を見ると、人がまばらに逃げ惑っていた。そこは細い車も通れないような路地裏で、もちろん消防車なんて通れそうもない。その路地裏に人がいること自体が危険なくらいだから、野次馬なんかはもっと大通りにいるのだろう。
「いない」
 小牧が短く言う。
 小牧は非常口の近くに部屋がある、五階にもう一つ存在するクラスメイトの部屋を覗き込んできた後だった。「いない」というのは、そこにクラスメイトがいなかったということだ。僕らが非常口から一番遠くて、一番階層の高い部屋だった。これで五階は僕らだけ逃げ遅れたことになる。それだけの時間が経っている。みっこが助かっているという信頼性が、多少上がった。
「僕らって見捨てられたのか?」
「いや、一度下に下りて保護されちゃえば、きっと俺たちを呼びに戻ることなんて出来ないんだ。先生でも。俺たちはやっぱり気づくのが遅かったんだよ。いいから早く行こう。逃げられなくなる」
 小牧はそう言って、風に揺れるペラペラの非常口を手で抑えてしっかりと開けた。僕もその行動に従った。細い手すりに触れると、それは体温以上に温まっていた。その温度が、僕を恐怖させる。ここは五階だ。下をのぞいて、ひやりとした。もし、こちら側まで火が達したら、こんな安っぽい階段なんて一たまりもなく、ドロッと溶けてしまいそうな気がする。そして僕らが逃げられないまま、揺れて軋んで五階から地面に叩きつけられる姿を想像してしまった。小牧は一段ずつ階段を飛ばして降りていく。足元がただの鉄の網なので、小牧がドスドスと乱暴に足をつくたび、手すりが震えるようにして揺れた。小牧が五段くらいを一気にジャンプして降りると少し留まった。こいつには恐怖がないのだろうか。
 そこには入口があった。
 四階へ入るドアだ。
 僕はそれをちらりと見る。
 小牧がそれを予期していたかのように言った。
「行こう」
 それから僕は何かを振り切るようにして、無言で三階へ、そして二階へ達した。手すりは下に行くほど熱くなった。最後には手すりから手を離して、その螺旋階段から駆け抜けた。その細い路地裏にたどり着くと、息を切らしながら上を見上げた。既に三階の入口に近い窓には火の姿が見える。それは蛇がチロチロと見せる不気味な舌のようだった。あれは舌なめずりしているのだ。あの乱暴な力は、劫火だから。きっと全てをその中に飲み込んで、簡単に灰にしてしまうのだ。
 僕は情けないくらい震えて安堵している自分を発見した。
「おい! あっちにみんないるぞ!」
 クラスメイトの一人が叫ぶ。そこは大通りに面する路地裏の入口だった。その向こう側は人ごみで、消防士が一人立っていて、誰かを押しとめようとしている。竹島だった。竹島が消防士と必死の形相で、もはや格闘ともとれるくらいこちらに向かおうとしている。それを消防士が止めている。あんなに必死な顔を始めて見た。「いいからどけ!」そんな怒声が聞こえてくる。そしてこちらに気が付くと、また「おい!」と言って、消防士の肩を乱暴に叩くと、僕らを指差した。それに消防士が気づく。すぐに宇宙服みたいな格好をした何人かの消防士が駆け寄ってきて、僕らは囲まれるようにして保護された。
 僕らは助かったのだ。
 クラスメイトの輪に迎えられて入る。
 竹島はまだ格闘を続けている。女子のほとんどは泣いていた。男子だって泣いているやつがいた。当たり前だ。せっかくの修学旅行がこんなことになってしまったのだから。自分が死ぬかもしれない恐怖なんて、誰だってそれまで味わったこともなかっただろう。加えて、今ホテルを包むあの劫火。自分は助かったのだ。あの中にいたら死んでいただろう。そういう安堵感で涙が出てくるのだ。
 でも良かった。みんな助かったのだ。僕はクラスメイトの顔を見た。
 その全ての顔をクルクルと踊るようなステップで、慎重に、慎重に一つづつ確かめた。
 二度、三度までは助かったことで、僕は笑顔を浮かべていた。
 僕は、四度、その中にあるべき顔を探した。
 きっとそれは泣き顔だろうと思いながら探し続けた。
 五度、六度、七度。
 僕は探した。
「おい……」
 僕は呟く。根気よく探し続けた。そこにはクラスメイトのほとんどが揃っていた。たぶん、ほぼ全員だ。僕は教室に並ぶ机を思い出して、そこに顔の見える一人一人を当てはめていく。毎日見ていた教室だ。思い描くことは簡単だった。自分と一緒に逃げおおせた同じ部屋のやつらも当てはめる。小牧も当てはめる。そして教壇には竹島を当てはめた。
 小牧と顔を見合わせた。
 小牧の顔が凍りついていた。
 どうしても、席が埋まらない。
 どうしても。
 どうしても。
 どうしても。
 どうしても。
 どうしても。
 どうしても。
 どうして。
 どうして。
 どうして。
 どうして。

 僕は周囲に存在する空気という空気を全て、
 自分の体内に限界を超えて取り込むと、
 咆哮と同じ方法で、
 爆発した。

「どうして、みっこだけがいないんだ!」

 全員が助かったんじゃないのか? 見間違えじゃないか? 見間違えるはずがない。僕がみっこを見失うはずがない。なぜみっこが? みっこだけが!? ああ! ちらりと竹島を見た。あの、消防士に取り押さえられている、勇敢な先生を見た。僕らが助かってからも、竹島がまだ消防士と争っているのはなぜだ? 誰かが助かっていないのだ。誰が? 決まっている、頭の中にある座席表の空白。その机。みっこだ。みっこだけが助かっていない。みんなそれが分かっているのだ。僕が助かっても、みっこが駆け寄ってこないのはなぜだ? 良かったね、サクちゃんって言ってくれないのはなぜだ? 凄く怖かったって、泣き顔が見えないのはなぜだ?
 みっこは、まだあの劫火の中にいるからだ。
 僕は、みっこと仲が良かった女子を見つけて、乱暴に肩を掴んだ。怯えたような彼女と目が合う。部屋は二班分の女子が同じ部屋に割り当てられているはず。彼女はみっこと同じ部屋のはず。なら、彼女が助かっていて、みっこがここにいない理由は何だ? どうして彼女だけ助かっているんだ?
「ねぇ……、みっこは? どうしてみっこがいないの? どうして!?」
 彼女は尋問されている犯人のようだった。
 彼女の顔は涙でびしょ濡れのだった。
 僕は彼女を責めているのではなかった。
 でも、彼女が怯えるのは無理ない。
「どうしてだ!」
 もう一度僕が叫ぶ。
 彼女はビクッと髪を揺らして、「だって、だって……」と何度もしゃくり上げる。
「だって……ミクちゃん、起きないの。呼んでも、揺らしても、叩いたって起きないの。絶対に起きなくて……。それで、階段から逃げようとしたら、火が見えて。怖くて……。もうその時にはミクちゃん、もう起きてるかと思ってた。当たり前でしょ。こんな火事酷いんだもん。でも、いなかった……。でも、私、先生に言ったよ!? でも、逃げてる時に、田中さんが足を……。先生は田中さんを背負ってたの……。だって……」
 見捨てたのか、という言葉を僕は押し留めた。
 いや、押し留めたんじゃない。押し留める必要もなかった。次の瞬間には、僕は何も考えられなくなっていたから。
 ただ、反射的に足が逆の方を向いた。
 ホテルの方を、自然に向いた。
 足に力を込めて、飛び出そうとする。
 その瞬間、僕の右手が後ろに引っ張られて、ビンと体が固まった。
 振り向くと、小牧だった。
「俺が行く」
 僕はその真っ直ぐな目を見た。
 しばらく、僕らはその目を見合った。
 僕は一度、長い瞬きをする。
「僕は、お前のことを、本当に凄い男だと思う」
 小牧が目を閉じて、首を振るう。
 そして、僕は続けた。
「ごめんな」
 僕は腕を振るうと、思いっきり小牧を突き飛ばした。
 いかに筋肉質の小牧と言えど、唐突のことで、後ろに吹っ飛ぶ。
 僕はみんなが小牧に注目した、その瞬間にホテルに向かって駆け出した。
 まだ言い争ってる竹島と消防士の脇をくぐるようにして抜けた。
 竹島が何かを言った。
 聞き取れない。
 小牧の声も聞いた。
 何を言ったか分からなかった。
「ありがとう」
 僕は、そういい残して全力で駆け抜けた。
 たった今、逃走してきた道を。

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