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一日目:サク編 01話

 秋に入り始めの寂しさは、単純な人恋しさとは違うと思う。
 そんな生々しいものではなくて、もっと乾いていると僕は思う。
 大切な人に会いたくなる、とかそういうことじゃない。言ってしまえば、誰かと一緒にいても寂しい。そういう季節だ。冷たくなった空気に脅かされて、周りの広さに気づく。そして足りないものを探してしまう時期。これは自分に足りない対象が見つからない寂しさなのだ。寂しさに汚染されると言えば、僕にはしっくりとくる。
 目の前に本を開きながら、何も集中出来ていない今の僕には。
 大学の図書室の窓はどこの馬鹿が空けたのか全開で、でも夏の残り香のする午後の風が割合暖かくてあえて誰も閉めないままで、机の上に本を載せて授業で必要なものを調べてる僕には、ペラペラ舞おうとする小難しい本のページが邪魔だった。
 僕は気づいていた。
 長方形の大きな板をそのまま浮かせただけのような大きな机には、六つの椅子が行儀よく並んでいて、僕の対角線上に嫌に肌の白い女の子が座っていた。
その女の子は白く華奢な手と全く似合わない、人を殺せるような黒い分厚い本のページを重そうにめくっている。
 僕は気づいていた。
 彼女のせいで、全く自分の本に集中出来ていないことに。
 風が吹いた。
 彼女の何だかなぜか癖が残っている髪を横に流す。
 そして僕は信じられない気持ちで、小さく呟いてしまう。
「みっこ……?」
 彼女がこちらを見た。
 目をまんまるに見開く。
 その雰囲気は全然違うけど、まだ面影が残っている。
 間違いなくみっこだった。
「サクちゃん……?」
 みっこは中学生の時の同級生で、クラスが同じだった。
 同じ班になって、その班で修学旅行に行った。
 仲が良かった。
 僕は彼女を忘れていないくらい仲が良かった。だけど、ただ仲が良かっただけだった。そして彼女は別の高校に行った。僕より頭のいい高校だった。僕には到底行けないような高校だった。だからそこで僕と彼女は別れてしまった。でも、僕は忘れていなかった。風の噂で彼女が同じ大学に入ったと聞いた。時折構内ですれ違うことはある。でも僕はただ見ているだけ。何を今更、という感情が僕の中に渦巻くのだ。僕は確かにみっこを忘れてなんていない。でも、何を今更、だ。みっこは僕をきっと、忘れているのだ。だから今まで声をかけたことがなかった。
 しかし今ここで声をかけてしまったのは、もっと単純に驚いてしまったのだ。みっこは昔から、中学の頃から、微かにオレンジがかかった髪が似合う、優しくて笑顔の似合う女の子だった。でも、今のみっこには以前の血色が良さそうで利発そうな雰囲気なんて欠片もなくて、逆に、肌が薄ら白くて病人のような雰囲気を湛えている。それがまた窓からの秋の陽を浴びて、きらきらと光っているようだった。窓辺に置かれた繊細なガラス細工を思わせた。触れてしまえば折れてしまう気がするほどの。イメージチェンジだろうか。でも、その域を超えてしまっているように思う。
 この前大学内で見かけた時は、以前のままのみっこだったのに。
 この短期間で何があったのだろう。僕には分からない。僕とみっこの間には、今は遠い距離があるから。みっこがイメージチェンジをする理由なんて知りえるはずがない。僕が知っているみっこは、中学までなのだから。この言葉を交わさなかった間に、みっこに何があったのか、僕は知ることが出来ない。
 僕は思わず立ち上がって、みっこの側まで歩いていった。
「久しぶり」僕はとりあえず、それを言った。
「久しぶり」みっこもにっこりと笑ってくれる。
「みっこ……だよね?」
「ふふ、うん、そうよ。やっぱり雰囲気違う? みんなに言われるの」
「そんな、声まで変わって……」
「やーね、それは気のせいよ。何年ぶり?」
 そこまで言って、僕らはお互いに「あ」と気まずそうに俯いた。
 気づいてしまったのだ。
「……大学で会うのは初めてね」
「やっぱり知ってたんだ。同じ大学だって」
「あ……、うん、ごめんね」
 みっこには今、彼氏がいる。
 僕はその事実を知っていた。
「いや、何で謝るの。本当、久しぶりだね。雰囲気も凄い変わった、大人っぽくなったよ。それに、昔は本なんて読んだっけ? 何読んでるの?」
 僕が覗き込むと、みっこは軽く笑いながら静かに本を閉じた。閉じる前に、ページの中で見えた小さな見出しの言葉は「アルビノ」。閉じた本の表紙には「一般動物に見られる遺伝的病症」と書かれていた。
「……難しいの、読むようになったんだね」
「ん、ううん、大学の論文のためなのよ」
 どこかぎこちなく、みっこは言った。
 その顔があまりにも遠くて、僕は言葉を失う。
 しばらく、みっこも話さなかった。
 みっこの肌を風が通う。
 白い肌の上に粒子が踊ってるような気がした。
 腕が細くて、白く、冷たそうだった。
「あのね、サクちゃん。アルビノって……知ってる?」
「アルビノ?」
 どこかで聞いたことある。先ほどの本に書かれていた言葉。一般動物に見られる遺伝的病症。僕の貧困な脳はなぜか動物園や水族館を思い浮かべて、そしてそれは運よく正解を気づかせてくれた。「一般動物に見られる遺伝的病症」アルビノ。遺伝的な性質だ。
「ああ、あの、生まれつき白い動物のことでしょ?」
「そう、遺伝がどこか違って、メラニンを作れないんだって」
「へぇ、美白ってことなんだ」
 僕は笑った方がいいと思って笑った。
 みっこの顔が妙に悲しげだったから。
「そうね」と言いながら、みっこはなぜか儚く微笑む。
 その笑顔にハッとした。
 僕はもっと早くみっこに再会すべきだった気がした。もっと早く、もっと早く出会っていれば。あの頃の明るく元気なみっこと別れなければ。こんな笑顔を見ないで済んだだろうか。僕は何かを留めることが出来ただろうか。あるいは、取り戻せたというのだろうか。僕はどうしたと言うのだろう。何もかもが変わっていくのだ。
 僕らの間には、今、遠い距離がある。
 嘆いても叫んでも、埋められないほどの距離。
 僕が知っているみっこは、どこかへ行ってしまった。
 みっこは、変わっていくことを望んだのか?
 漂白されたような白い横顔。
「みっこ……、そのアルビノって、どんなの? 僕、水族館でしか見たことなくて」
「うん、色々大変みたい。視力が弱いとか、紫外線に弱いとか」
「生まれつき?」
「うん、そうみたい」
「……そう」
 みっこがふいっと横を向いて、時計を見た。
 そしてこちらを振り返ることなく立ち上がった。
「ごめんね、もう行かなきゃ。また……」
「うん……。あ、その本、重いだろ。僕、片付けとくよ」
「本当に? ありがとう」
 みっこはずっとこちらを見ない。
 僕はその背中を、ずっと見ていた。
 ずっと見れなかった、背中。
 触れたいと幾度となく願った小さな背中。
 その背中が震えてる。
 彼女が歩いていく。
「サクちゃん、あのね」
「何?」
「いけないことだったのかな。変わってくっていけないことだったのかな? 私、怖いの。何だか怖くて、そんなの見てた。遺伝って、変わらないイメージあるじゃない? ずっと大切に伝わってく。そんなイメージ。でもアルビノって見つけて……。ああ、いきなり変わっちゃうんだなぁって。何だか白すぎるってよく言われて、そんなの見てた。私、自分がどうなっていくのか、怖いの」
 そう言って、みっこは背中を震わす。
「何か、あったの?」
「ううん、別に何もないわ。ただ、急に不安になっちゃって。サクちゃん見たら、何だか、色々思い出しちゃって。高校と今までの大学で私、変わっちゃったでしょ? もしサクちゃんと一緒の高校に行ってたら、結局同じ大学に来たかもしれないけど、変わらずいられたのかなぁって」
 みっこはポケットからハンカチを出して、顔に持っていった。
 表情は見えない。ずっと振り返らないままだった。
 まるでもう僕を見たくないかのように。
 そのままみっこが歩いて廊下に出たのを、ただ僕は眺めていた。
「みっこ……」
「お願い、来ないで。お願い……。お化粧、剥がれちゃってるの」
 瞬間――
 僕は図書室の扉に向かって走った。
 ドアをつかむ。
 なぜか、そこから先は走れなかった。
 例えそこから走っても、みっこには決して追いついてはいけない気がした。
「みっこ! それでも僕はまたみっこと会えて、嬉しかった!」
 みっこは廊下を駆け出した。
 ハンカチがモルタルの床へ花びらのように落ちた。

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一日目:蓮火編 01話

彼女と出会ったのは三年前。
バイトで疲れ果て、酒を呑んで酔っ払って歩いている時の事だった。

正確に言えば、こちらが一方的に見ていただけだから、「出会った」という表現は適切でないのかも知れない。

寂れた飲み屋通りの路地で、アコースティックギターを持って座っていた彼女。
印象的だったのはそのオレンジ色の髪の毛だった。

あれは見惚れるという感覚なのだろうか。
酔いでふらついた足を止め、彼女を見た。

目が合った瞬間、彼女の唇が動き、それはやがて声になった。

歌いだした彼女の声は、髪の色と同じように明るく、周りを優しく包み込むように響いていた。
通行人の何人かと俺は、そこで足を止め、数曲の歌を聴いていたのを憶えている。
彼女の観客になること自体が当然であるかの如く。

歌が終わり、観客となった数人と彼女は話をしていた。
聞き耳を立てたわけではないけれど、会話の中で名前が「みく子」である事を知った。

とにかく、みく子と俺の出会いはそんな感じだった。

それから、何度かそこに足を運んだ。
いつもいるわけでは無かったし、時間もバラバラだった。
それこそ昼下がりだったり、深夜だったり。

ただ、その歌声だけは変わらないままであったのが嬉しかった。

バイトが忙しくなり、足を運ぶ回数が減ったのは一年前。
それから、季節は何回か移り変わり、今年も十月になった。
いきなり寒くなったから、またあの歌声を聴きたいと思った。
不思議と元気が沸いてくる、あの声を。

家を出て、みく子が唄う路地へ足を運んだ。
運良く、彼女は其処に居た。
だけど、そこには変わり果てたみく子が居た。

肌は人の目には眩しすぎる程白い。
その肌の色と同じように、歌声は攻撃性を伴っている。
そして何故かアバンギャルドなパーマをかけていたのだ。
通行人の何人かが足を止めてはいたが、すぐに立ち去っている。

歌が終わり、みく子は小さく「ありがとう」と言って、ギターをケースにしまった。

俺もショックを隠せない。
直接話す事は無かったが、三年もみく子を見てきたんだから。
立ち去ろうとするみく子の肩に思わず手を伸ばした。

「あの!」
「…何でしょうか。」

問いたい事は決まっていたはずだが、言葉にするのに時間がかかった。
言葉が出なかったのは、振り向いた顔が眩しかったからなのか。
思わず自分の手を見つめながら、言葉を捜す。

「ええ…と、みく子さんですよね。俺は蓮火といいます。」
「蓮火っていう名前だったんですか。」
「え?」

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一日目:蓮火編 02話

「何度も、歌を聴きに来てくれてたでしょ?
 なのに話しかけて来なかったから、こう考えてたの。
 きっと、この人はシャイなのかキモいのかどっちかだなって。
 あぁ、恐らく後者だなぁって。
 だから、なんとなく憶えてたんですよ。」

なんて失礼な!だけどその失礼っぷりのお陰で、吹っ切れたように言葉が出た。

「今日、久しぶりに見に来ました。
 でも、正直びっくりしてしまって…。
 率直に尋ねていいですか?
 イメージ、いきなり変わりましたよね?」

長い沈黙の後、みく子の肩から手を離す。
彼女の頬に、涙が伝っていたからだ。

不得意な、女の子の涙。
逃げ出すわけにもいかず、俺は声のトーンを落とした。

「座って話そうか。」

涙の理由を、みく子は少しずつ語り始める。

「蓮火さんは」

「あー…呼び捨てでいいよ。」

「蓮火は、最近来てなかったから知らないよね。
 今みたいにする事をね、ちゃんと前もって言ってたんだよ?
 だけどね、それに耳を貸さなかった人もやっぱりいたわ。」

「ごめん、知らなかった。」

「でね、それでも思い切ってやってみたの。
 それで蜜クン、あ、彼氏なんだけどね。
 蜜クンに最初に見せたら怒っちゃったの。
 なんで相談も無しに、勝手に行動しちゃうんだって言われた。」

そりゃ、そのパーマを見れば、至極当たり前の反応だ。

最初に頭に浮かんだのはそんな言葉だった。
だけれど、今の俺の目的は何だ?
ここで座り込んで、みく子と話をしている理由は何だ?

それは、前と同じように、周りを包むような声を響かせていたみく子の歌声を聞きたかったからじゃないだろうか。
オレンジ色の髪を揺らしながら、明るく唄うみく子を見たかったからじゃないだろうか。
ならば、彼氏に同情する気持ちは今はしまっておくべきだ。

「似合ってないとは言わない。
 だけど、前のイメージとはかけ離れすぎてるよね。
 ここまで変わってしまった理由はあるの?」

「刺激が欲しかったの。
 最近蜜クンかまってくれなかったから。
 だから私が変わろうと思ったの。」

あの歌声を発するみく子の中身は、こんなにも少女だったとは。
だけど、きっとこの原因の根は深いのだろう。
俺は、次の言葉を捜す。

「それで、その、蜜クンと喧嘩してしまったんだ。」

「あ、蜜クンとは一度仲直りしたんだよ?」

「じゃあ、もう攻撃的になる理由は無いじゃない。
 そもそも歌を唄いだしたのは何の為?」

「そうねぇ。最初は中学生の時だったわ。
 その後高校、大学ってずっと唄って。」

「どこの大学?」

「ここからすぐの国立。解るかなぁ?」

「…あぁ。ノートン教授の特講受けてる人がいるとか業界で騒がれてるあの大学か。」

「ノートン教授すごい興味があるんだけど!」

バイトで小耳に挟んだ、俺にとってはどうでも良かった情報が、まさかみく子を微笑ませるとは思わなかった。
笑った顔に少し心が揺れた。

歌いだした理由はもうどうでもよくなって、そのまま少し話は逸れていった。
だけど、それじゃダメな事は解っている。
残酷なほど時間が足りないのも事実。

「あのさ、明日もう一度会わない?」

「それじゃそろそろ」と彼女が言いそうな気配を察知して、慌てて出た言葉がそれだった。
しまったと思いながら、思わず目を逸らす。
そんな俺を見て、みく子は微笑みを返してきた。

明日、やっぱり聞いてみなきゃ。
みく子があの歌声を取り戻すのには、何が必要なのか。

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一日目:蓮火編 03話

「こんばんは♪」

今日はみく子が俺の肩を掴んだ。
昨日雑談のお陰で、最初の固さはもう無い。
これなら、本音を聞けるかも知れない。

「なんで明日も会おうって思ったの?」

みく子は小悪魔的な笑みを浮かべてそう言った。
しかし、その笑みとは裏腹に、病的な白さの顔が俺をゾクリとさせた。
一瞬言葉につまって、それでも俺は言葉を放った。
ただ、前と同じ歌声を聴きたいが為に。

「いや、俺はただ、昨日の質問の続きが出来なかっただけなんだ。
 彼氏と仲直りしたところまでしか聞いてなかったじゃん?
 その先。それでも元気が無いのは何故なのか。
 多分、歌声が変わったのもその所為なのかなって思ってさ。」

「…」

「昨日初めて話したような俺でよければ、
 理由、聞かせてくれないかな。」

昨日泣き出した時と同じように、しばらく沈黙があった。
弱々しい声で語り始めたみく子は、何かにすがるような目をしていた。

「最初に蜜クンと喧嘩した後、今日ね、元彼に会ったの。
 今の彼氏が怒る理由も解るって言われちゃった。
 それから、私の心の中でね、揺れてる想いがあるの。」

「元…彼?」

「うん。」

「揺れて…る?」

「うん。」

「その想いって?」

「それはヒミツ。」

そう言うと、みく子はまたあの小悪魔的な笑みを浮かべた。
明らかに、危ういとしか言いようが無い。
これが本当に、あの歌声を発していた本人なのだろうか。

「姿が変わっても、同じ歌声を出せると思ってたわ。
 だけど、前もって言っても殆どの人は聞いてくれなかったじゃない?
 思い切って変えてみたら、やっぱり歌を聴いてくれてた人の反応は悪いし。
 蜜クンや元彼でも接し方が違うんだもんね。
 だから当たり前なのかも知れないけど、私は不安になるじゃない?
 そしたら…。」

「…そしたら?」

「前と同じ様に歌えなくなってた。」

みく子の目から涙が零れる。
恐らく、変わる前兆はいくらでもあった。
あるいは、少しずつ内面は変わっていたのかも知れない。
それに誰もが気付かずにいた事実が、彼女の歌声の変化に関係あるのかも知れない。

「変わる事は、悪い事なのかな?」

俺に対しての、みく子からの初めての質問。
憶測でしか答えられない。
だけど、みく子がそれで進めるのなら、それでいいと思った。

「変わらないものはないよ。
 だけど、みく子の中で…その、さっきヒミツって言ってた想いがあるんでしょ?
 どちらに対する愛も本物で、変わった自分を受け入れてもらいたい。
 なら、どちらにも本音を伝えるべきなんじゃないかな。
 始まりはきっとそこだよ。」

ヒミツの中身を、俺は勝手に恋愛関係と解釈した。確信は無い。
力強く発した声と裏腹に、顔に迷いが出ているのでは無いかと思う。
静かに涙を流す彼女は、そんな俺の顔を見て少しだけ微笑んだ。

「そうすれば、また同じように歌えるかなぁ。」

「それは解らないけどさ。
 だけど、それだけ勇気出した後のみく子の歌声は聴いてみたいかな。」

しばらく地面を見つめた後、みく子はゆっくり立ち上がる。

「ありがとう。じゃあ、行くね。
 今度唄う時、蓮火も聴きに来てね。」

みく子の頬に流れる涙を、完全には止められなかった。
だけど、きっとみく子は動き出す。
もし歌声が変わっても、オレンジ色の髪を揺らす事が無くなっても。
その歌声が、周りを優しく包み込むような歌声であればいいな。

みく子の後姿を、そう思いながら見送る。
やはりまだ力無く歩くみく子の背中に、俺は最後の言葉を大声で叫んだ。

「とりあえず、そのパーマだけは直せよ!」

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一日目:ロシュ編 03話

グォーーン!グォーーン!
キュルルルル…

エリカを車に乗せて、山道のワインディングを猛スピードで走らせる。

「ね?、ロシュ、怖いよ?。飛ばし過ぎだよ?」
「…」

頭から離れないミクを振り払うように飛ばしたい気分だ。

「ねぇ?」
「…」

やがて、小高い山の展望台に着いた。
駐車場に車を停め、エリカの方を見るとエリカがシートで小さくなって、上目遣いでこっちを見ている。

「ねぇ?ロシュ?。さっきから全然喋ってくんないじゃん」
「…あ、そうだっけか…ワリい。ちょっとさ、運転に集中してたからさ」

「ロシュって、時々そういう自分の世界に入ってるトコあるよね」
ぷっとふくれっ面してエリカはこっちを見つめてる。

「ゴメンな」
膨れたホッペにチュっとキスをした。

「もー、でも………。許す!!」
その瞬間、エリカの顔がぱあっと笑顔になる。

この笑顔にオレはやられたんだ。
だから、ミクと別れてエリカと付き合うようになったんだ。


すっかり日は落ちて、フロントグラス一面に広がる街の夜景が
ゆらゆらと…
キラキラと…
揺らめいている。

うっとり見つめるエリカの瞳を見ていたら、キスがしたくなった。
そして、キスをしようとした瞬間、ダッシュボードに置いていた携帯が鳴った。

「ううん。今は出ないで。」
エリカはそう言いながら、鳴り続けているオレの携帯を後部座席に投げた。


そのまま熱いキスを交わし、その夜はエリカと過ごした。

彼女のエリカとゆっくり一緒に過ごすことで、今日のミクの事をすっかり振り切ることが出来たようだ。



翌朝、後部座席に投げられたオレの携帯を見つけた。

その電話はミクからで、留守電が入っていた。
「蜜クンが…  彼が…  怒っちゃたの… 私…  もう…  やだ…」

泣き声混じりでよく聞き取れないのだが、ミクに何か大事件が起こったことは明らかだ。

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一日目:蜜編 現在 06話

部屋の電気を消す。
みく子がいなくなった部屋は静かだ。そして広い。
リモコンを手に取り、テレ・ビジョンの電源を点すと、下品な笑い声。

何が真実なのかなんて知りたくもないし、知る事さえ出来ないんだと思う。
みく子がいなくなった部屋で最初に考えたのは、これから何をするべきかという宛の無い感傷だった。みく子はいない。恐らくもう帰って来ない。部屋の隅に、みく子が好んで座っていた、オレンジ色の小さなソファがある。みく子が買ったソファだ。そこはみく子の特等席だった。僕はそこを見ないようにした。みく子がいない事を改めて確認させられるようで厭だったから。

ベッドに寝転んで、天井を見上げてみる。僕は何をしている? みく子がいなくなったのに。何にもしていない。みく子がいなくなった事実に対して、「みく子がいなくなったな」と、感傷的なナルシズムに耽っているだけだ。まだ一日も経っていない。何から数えて? 解らない。

寝返りを打とうとすると、オレンジ色のソファが目に映った。僕は顔を背ける。すると壁に貼られたポスターが見えた。外国のバンドのボーカリストが座っている、何の変哲も無いポスターだ、みく子が貼ったポスターで無ければ。僕は目を閉じた。すると何処からか、みく子の香りがした。香水ではない。石鹸の香りか。薄目を開けると、視点の定まらない枕元に、一本の糸。長い糸。窓辺の月明かりを浴びて金色に見える。たった一本。みく子の髪の毛だった。

まだオレンジ色の長髪だった頃の、みく子の髪の毛。
僕はそれを摘み上げると、唇に当てた。何だ、この部屋は、みく子だらけじゃないか。
そう思うと、また泣けてきた。
テレ・ビジョンの中で、名も知らぬタレント達が、また下品に笑った。


【M線上のアリア】 現在/06


僕に何が出来るかなんて解らない。きっと何も出来ない。
特に一年前にアルバイト先の居酒屋を辞めてからの僕は、まるで駄目だ。
この部屋から出る事も億劫だ。それでもみく子と一緒にいれば、週に何度か外に出て行く事もあったのだけれど、これから先の自分を想像すると、自分を嘲笑したい気分になる。一生、この部屋から出ようともせず、死んでしまうのではなかろうか。みく子を助ける事も出来ず、世界に影響を与える事も出来ず、餓死か? 餓死くらいが相応なのではなかろうか、そのうち僕は死ぬんだろうな。この虚無的な感傷に浸ったまま。何で此処にいるんだ?

何で此処にいるんだろう。良いのか、みく子を追わなくて。先程から台所の蛇口がポタポタと水滴を漏らしているのがウルサイ。止めるのも億劫だ。とにかく僕は動きたくないのだよ。誰とも関わりたくない。誰かと関わる事で、面倒な事情に巻き込まれたくない。傷付きたくない。

蛇口の水滴を止めにいく時に、もしかしたら水道管が破裂して怪我をするかもしれない。ならばこのままの方が良い。馬鹿らしい。数秒前まで、このまま餓死する事を夢想していた自分が、水道管の破裂に怯えているなんてな。馬鹿らしい。なぁ、みく子、何処へ行ったんだ?

変えたいな、みく子、世界を変えてしまえば、君は笑えるだろうか。
何にも出来なかったな。情けない。一緒に泣いただけだ。いや、僕が先に泣いた。
何にも出来なかったな。何にも出来ないのかな。本当に何にも出来ないのか、僕は?
くだらない命だ、僕の命なんて。誰の為にもなりはしない。ああ、変えたいんだ、世界を。


「相変わらず、虫の良い話だな」


突然、声が聞こえた。
僕は慌てて部屋を見渡す。男の声だ。誰だ?
みく子が部屋を出て行ってから、誰かが入ってきた記憶は無い。

「自分じゃ何も出来ないくせに、世界を変えたがっているんだろ」

暗闇の中で、男は笑って、そう言った。
僕は体を起こすと、異常に高鳴る心音を抑えるように「誰だ!」と叫んだ。
男は低い声で六四分音符を刻むように笑い、僕の叫びを吸い込むように「慌てるな」と言った。

「俺は、お前のような人間の元に現れる。
誰とも関係を築こうとせず、己の殻を破る事もせず、何の手段も持たず、
そのくせ世界を変えたいと思っているような、お前のような傲慢な人間の元にな」

暗闇の中で、男が何処にいるのかを、僕は見た。
部屋の隅。みく子の場所。彼女の特等席。そこに男はいた。
男はオレンジ色のソファに腰掛け、手と足を組んで、僕を眺めていた。

「こんばんは、羊。俺は悪魔だよ。お前を食いに来た」

蛇口の水滴が、またポタリと落ちた。
だけれどその小さな音は、僕の耳には届かなかった。

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一日目:蜜編 現在 07話

悪魔は含むように笑っていた。
悪魔はオレンジ色のソファに座りながら、中指でサングラスの位置を直した。暗闇でサングラスをかける意味も解らないが、立派なレザー・ジャケットを着ている意味も解らない。悪魔? どう考えても単なる不法侵入者ではないだろうか。あとは変質者か何か。そうでなければ立派なレザージャケットを着ている癖に、下半身は全裸でいる意味が解らない。

目の前に座る人間を悪魔だと認識する為に必要な手段は、世の中に何個あると思う?実は一個も無い。それが悪魔だと実証する術など一個もない。でなければ中世ヨーロッパでの魔女裁判など、幾分かマシな結末になっていたはずだ。悪魔と人間を見分ける方法など無い。

「……悪魔?」
「イエス、お前達が求める限り、俺はその名で呼ばれるのさ」
「……悪魔、お前が本当に悪魔なら、ズボンくらいは履いたらどうだ」
「おっと、これは失敬、このジャケットに相応しいズボンの記憶が無かったのものでね」

悪魔は確信犯のように小刻みに笑うと、一瞬目を閉じて(と言ってもサングラスの下の目は暗闇では見えなかったが)、指を鳴らすと何事も無かったかのように立ち上がった。恐らく、僕が瞬きをした、ほんの半瞬。悪魔の下半身には、三本ラインのジャージが身に付けられていた。ドンキホーテで五百円くらいで売っているような、ピンクのジャージだ。

「これで不満は無いかね?」


【M線上のアリア】 現在/07


「いや……うん……まぁ」

不満が無いとか、そういう問題ではなくて、CG映画か手品でも見ているような気分だったし、そもそも目の前の男が何を目的にしているのか、解らない。いきなり悪魔ですと名乗られて「はい、そうですか」と思える訳が無い。だけれど目の前で一瞬にして三本線のジャージを出されたら、もしかしたら悪魔なのかもしれないなぁとも思えるし、もしかしたら腕の立つ変質者のマジシャンなのかもしれないなぁとも思える。どちらにせよ胡散臭い存在には変わり無い。

「僕を食いに来た、と言ったな」
「イエス、正確に言うと、お前の記憶を食いに来た」
「記憶を食う? どういう意味だ? アンタは僕を殺しに来たのか?」
「とんでもない。 真っ先に家畜を殺す馬鹿が何処にいる。 飼育しに来たのさ」

飼育? 見下すような言葉に一瞬、腹が立ったが、非常に悪魔らしい発言だ。悪魔的に正しい発言だと言える。もしかしたら本物なのかもしれない。悪魔が実在する、しない、という論点は、今は問題では無い。重要なのは、今、悪魔と思わしき人物が目の前にいて、僕に何かをしようとしている点であるし、それに対して僕はどう対処すべきか、という点である。
悪魔は立ち上がったまま、腕組みをして、僕を見下ろしている。

「……襲い掛るような真似はしないんだな」

悪魔は声を出さずに呼吸だけで笑い「悪魔はそんな真似はしない」と言った。数歩、歩み寄ると、僕の顔面に手を伸ばす。人間の手とまるで同じだ。爪が少しだけ伸びているような気はするが、特異な部分はない。悪魔は人差し指を立て、それを僕の額に当てると、こう言った。

「契約を結ぶんだよ。それで始めて、俺はお前の記憶を食える」
「……契約?」
「悪魔は紳士だ。俺達は記憶を食う代わりに、お前達に報酬を与える」
「……報酬?」
「記憶の味に応じて、お前の望みを何でも叶えてやるよ」

なるほど。
フランス料理にはフランス料理としての価格が、マックス・ドックスにはマックス・ドックスとしての価格があるように、悪魔にとっては、記憶にもそれ相応の価格がある、という意味か。記憶を食う?
「一気に食う訳ではないのか」と僕は言った。

「一気に食う訳が無いだろう。お前が死んでしまう。先程も言ったが、これは飼育だ。
お前は生き続けて、新たな記憶を増やし、俺に記憶を提供し続けて貰わなければ困る。
それが契約だ。解るかね、羊?」

「よく解ったよ」と言う寸前に、僕は笑った。
なるほど、紳士ぶってはいるが、何と都合の良い契約だ。この男は間違いなく悪魔だ。
生かさず、殺さず、飼い続け、最後には残さず食ってしまうんだろう、悪魔よ。それもいい。
僕は改めて笑い始めると「よく解った、記憶を食ってくれ」と言った。

「随分、物分りが良いな」

人差し指を額に当てたまま、悪魔が言った。
そうだな、このまま餓死していくのも良いけれど、記憶を食われて生き延びるのも良い。
世界を変えたいのだよ、みく子。君が笑える世界はどんな世界だ? 世界を変えてやる。

「まずは何を望む? 俺はそれに相応しい記憶を食ってやる」

どんなにグルメ家ぶってる貴婦人だって、肉を食う瞬間は、醜い欲を満たそうとしている。下品な欲を剥き出しにした表情をしている。悪魔だって同じだ。悪魔は、(まるで頭部をメスで切開したように)人差し指を動かすと、僕の脳みそを掻き分けた。そしてまた小刻みに笑った。

「ククククク……お前もか」

お前もか?
どういう意味か解らないが、悪魔は食料を探している。
そして我慢するように「早く望みを言え、もう待ちきれん」と呟いた。

「そうだな、まず……」

悪魔が記憶を食う瞬間を、僕は見なかった。
見てしまったら、これから先、記憶を食われる度に、思い出してしまいそうだったから。

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一日目:しのめん編 01話

光が羨ましかったんだ。

物心付いた頃に、自分以外の人には
『色』という認識がある事を知った。

誰もが自分と同じように
濃淡のみで構成された世界を見ていると思っていた。

折り紙、クレヨン、絵の具、運動会の何組。
全てが同じ色だった。違うのは薄いか濃いかだけ。
色が解らないだけで、いじめを受けるようになった。

次第にいじめられるのにも慣れて
いじめる側はいじめる事に飽きて無視をされるようになった。
その影響で、高校を卒業するまでに友達と呼べる人は一人もいなかった。

地元から離れた大学に入ったけれど
大学での生活も今までと特に変わらない。
講堂の隅に座って黙々とノートを取る。
ただそれだけの日々。

ただ、特別これといって誰も話しかけてこないから
中学や高校に比べると随分楽だった。



そんなある日、いきなり話しかけられた。
最初は自分では無いだろうと思っていたけれど
トントンと肩を叩かれて、驚いて振り向いた。


「ねぇ、ノート写させてくれない?」


そこには綺麗なストレートの髪を揺らしながら
細身の女の子が悪戯っぽく笑っていた。


「黒一色だから見辛いよ?」


そう言いながら僕はノートを彼女に渡した。

彼女はみく子と名乗った。
それから何度か彼女にノートを貸したり
時には簡単な会話までするようになっていた。

気が付くと、彼女を介して別の人とも会話するようになり
その人達を介して、また別の人を知っていく事になった。

それが三年前の話だ。

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一日目:蜜編 過去 01話

その日、僕はまだ十九歳だった。

空はオレンジ色に染まり始めていた。僕はアルバイト先の居酒屋『呑み処 お松』の買出しの為に、次第に人が増え始めた夕暮れ時の街を、一人で歩いていた。玉子、片栗粉、納豆、小麦粉、醤油、メリケン粉……。「粉ばっかりだな」。メモ帳の内容を確認しながら、一人でブツブツ呟いていると、不意に赤信号に出くわした。街の中心部にしては割と小さな車道で、僕の近くに赤信号を待っている人はいなかった。

相対した向こう側には、女の子が一人。
オレンジ色の髪をした細身の女の子が一人、立っている。
少しだけ上を見上げて(恐らくは歩道信号を見ているのだろう)立っている。
両手で大きな何かを抱えている。それがギター・ケースだという事は、すぐに解った。


【M線上のアリア】過去/01


車道の信号が青色から黄色に変わって、すぐに赤色に変わった。
それに呼応するように、教師の設問に答える生徒のように、歩道信号は青色に変わった。
僕はメモ帳をポケットに入れると、歩道を渡り始めた。

ところが対面に立っていた女の子は、その場を動かない。
先程までと同じ姿勢のまま、少しだけ上を見るように、歩道信号を眺めている。
僕が彼女の横を通り過ぎる瞬間も、彼女の視点は、そこから動かないままだった。
まぁ、それほど不思議な光景でもない。
よく見かける光景とは言わないが、少し変わった人間など、世の中には沢山いる。

チカ、チカ、チカ。
青信号が何度か点滅して、それは赤信号に変化した。

彼女を少し変わった人間ではなく、だいぶ変わった人間だと思ったのは、その二十分後だ。
買出しを終え巨大なダンボールを抱えて歩く僕は、二十分前と同じ場所で、彼女を発見した。
彼女はやはり二十分前と同じように、対面の歩道信号を眺めたまま、微塵も動かなかった。
どうでもいいがダンボールが重い。中にはビニール袋にして五枚分の荷物が入っている。
そのほとんどが、粉だ。だから重い。

歩道が赤になったので、僕と彼女は、並んで立つ事になった。
ダンボールが重いので、僕は思わず、それを路上のアスファルトの上に置いた。
ふぅ……と息を吐き出し、両手首をブルブルと振り、一人マッサージ染みた事をしながら、
隣に立っている彼女の事を考えていると、何となく言葉が出てしまった。

「……あの、さっきから何してるんですか?」

「え?」と、まるで不意に撫でられたペルシャ猫のような声を出して、
彼女は首を動かすと、僕を見た。何だ、普通に人間らしい反応も出来るんじゃないか。

「あ、いや、さっきココを通った時にも、ココに立ってたから」

「ああ、そういう意味かぁ」と言って小さく笑った声は、
撫でられた手を舐めるペルシャ猫のようで、そもそもペルシャ猫がどんな声か知らないが、
まぁ、大体、彼女の声がそんな感じのペルシャ猫的な声だった、という事が伝わればいい。
とにかくそこから先の彼女は、冗舌だった。

「お腹すいちゃってさ」
「は? お腹?」
「昨日から何にも食べてないの」
「え? 何で?」

彼女は空腹に酸素を詰め込むように、大きく息を吸い込むと言った。

「財布、落としたから!
 もう考えられないと思わない? いくら入ってたと思ってるのか!
 とにかくアタシ、これから歌わないといけないの、でも元気が出なくってさぁ……」

彼女はギター・ケースを見せながら「歌えるかなぁ」と笑った。

「歌? 何処で?」
「路上で。お金ないからね、少し稼ごうかと思って」
「へぇ、なるほど、そりゃあスゴイ、君は歌を唄ってる人なのか」

彼女は「へへっ」と漫画的に、照れるように笑った。
彼女の切り揃えられたオレンジ色の前髪が、夕陽を浴びている。
小さな風に揺れたそれは、まるで小麦畑のように、金色に輝いていた。

「だけどね、でもね。
 お腹が空いてたというのはよく解ったんだけど、
 キミがずっとココに立っていた理由が、イマイチ解らないんだけど」

すると彼女はギター・ケースから片方の手を離し、それで何かを指差した。
歩道信号だった。その時、歩道信号は丁度、青色だった。
だけれど僕は、まだ渡りたくなかった。

「信号?」
「そう、信号」
「何でずっと信号を?」

チカ、チカ、チカ。
青信号が何度か点滅して、それは赤信号に変化した。

「青信号が点滅するのは何回なのか、ずっと数えてたの」
「うん」
「何回数えても、ずっと同じ回数なんだよ、ずっと変わらないの」
「うん」
「もしかしたら一回くらい、どこかで変わるんじゃないかなって思って、見てたの」
「何の為に……?」

僕が訊ねると、彼女は楽しそうに笑った。
まるで悪戯を思い付いた、小悪魔のような笑い方だった。
遠くに見えるビルの影がココまで伸びて、僕の影に覆い被さっていた。

「お腹が空いていたからよ」

彼女はそう言って、僕の目を見たんだ。

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一日目:蜜編 過去 02話

お腹を空かせた彼女を、僕はバイト先に連れて行く事にした。
安く食べさせてあげられると思ったからだけれど、考えてみるに彼女は無一文で、
仕方が無いから、奢ってあげる事にした。
僕は腹を空かせたペルシャ猫を放っておける性分ではないんだ。

「奢ってあげる、その代わり条件が二つある」
「なぁに?」
「名前を教えて。それから、歌を聴かせてよ」

「そうねぇ……」と考え込む仕草をして、彼女は笑った。
答は出ているのにわざと悩んだ仕草をしている、といった仕草だった。
赤信号が青色に代わり、僕らは並んで歩き始めた。
横断歩道の途中で、彼女は言った。

「みく子よ。それから歌は、お安い御用」


【M線上のアリア】過去/02


その時のみく子の食欲と言ったら。
もう目も当てられない。その日の稼ぎが全部飛んでいくかと思った。
いや、飛んでいった。お前どんだけ食うねん、と関西弁でツッコみたくなった。

ジャッキー・チェンの初期の映画に出てくる食堂でのジャッキーのように、みく子は食べた。
しかもその全ての皿を、美味そうに完食する。奢り甲斐があるというものだ。
まぁ、居酒屋の料理だから一品の量は(盛り皿でない限り)意外と少なかったりするし、
油モノは食べずに、あっさりとした料理を選んでいたから、食べ切れないという事はない。

それにしたって女の子にしては、食べすぎだ。
あの細い体の一体何処に、あれだけの量のもずくが吸収されているのだろう。
そして、あれは一体何杯目のもずくなのだろう。
僕は厨房の隅から、みく子が座る席を眺め、一人で感心していた。

「コラ、何ぼぅっと突っ立ってんの!」

突然、背後からの声と同時に、後頭部に鈍痛。
思わず「痛っ」と声を出すと、続けて笑い声が聞こえた。

「まだ忙しい時間帯じゃないから良いけど、何やってんの?」
「何だ、エリカか」
「何だ、エリカか、じゃないよ」

エリカは手に持っていたトレイをくるりと一回転させると、頬を膨らませた。
エリカは僕の幼馴染で、あろう事か今は同じ居酒屋でバイトをしている。
最近、好きな男が出来たとかで、割とテンション高めの日常を送っている。
まぁ、エリカの場合、常に恋多き女だけれど、今回はどうなる事か。

「別に、何もしてないよ」

横断歩道で見付けた女の子を連れてきて飯を食わせている、などと言ったら、
また面倒な詮索をされるのがオチなので、話を適当にごまかして、僕はフロアに出た。
周りの連中はエリカを可愛いなんて言ってるけれど、僕からしたら単なるお節介な女だ。

「飯、食った?」

僕はみく子の席に近付くと、皿を下げるフリをして、さりげなく聞いた。
みく子は満面の笑みで「食った!二日ぶり!満腹!」と言った。

「声が大きい!」
「あ、ごめん、満腹だったもので」
「じゃあ、二つ目の条件、歌を聴かせてよ」
「いいわよ、じゃあ仕事が終わったら、一緒に行きましょ」

みく子が当然のように言うので、僕は言葉を重ねた。

「何処に」
「路上に」

路上に行く、という表現も変だけれど、それは確かに正論で、
僕の仕事が終わるまで、みく子は席に座り続け、仕事が終わる十分前に店を出た。
もちろん、お金は先に、僕が払っておいた。

「蜜、今日A番? もう帰っちゃう?」

タイムカードを押して着替えようとしている僕に、エリカが声をかけた。
エリカと時間が合う時は、一緒に帰るようにしている。まぁ、家が近いから。
だけれどこの時の僕は、これから路上に歌を聴きにいかなければならない僕だったので、
当たり前のように「うん、今日はもう帰っちゃう」と答えた。

「エリカ、B番?」
「うん、まだ四時間も残ってる」
「まぁ、今日はあまり忙しくないし、頑張れよ」

この時、エリカは何かを悩んでいたのだろうけれど、何を悩んでいたのかは解らない。
エリカの事だから大半の悩みは恋に関する事で、好きな男の事で悩んでいたのだろう。
それとも、もっと深刻な……? いいや、それは無い。

店を出ると、息を吐き出した。
息を吐き出すと、それはわずかに白く煙っていた。
少しだけ寒気を伴った空気は、セロファン性の夜空を演出している。

「星、見えないね」

不意に、隣から声がした。
みく子だった。
みく子は星の無い星空を見上げながら、
……ああ、そうか。
まるで信号機を見上げるように星空を見上げながら、
僕の袖を掴んで、こう言ったんだ。

「じゃ、唄いにいこうか?」

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